「史上最悪の式典」
さる7月26日夕刻に挙行されたパリ五輪開会式は、夏季五輪では初めてメインスタジアムを離れて――野外、それもセーヌ川、同川にかかる主な架橋、エッフェル塔などの歴史的建造物などを舞台に――行われたことをはじめ、異例ずくめ、ユニークな式典であった。
式典では、スポーツ本体とは別に、文化芸術公演が織り込まれていた。フランスの歴史・理念・文化を基軸に、数々のエピソードをオムニバス的に演出したものであった。
これを評価・賞賛する声が聞かれる一方で、批判・反発の声も聞かれ、中には、「史上最悪の式典」と切り捨てるメディア(豪州ABCのニュースサイト)すらあった。
私自身、五輪と無関係の、それもかなり偏った内容の公演が長々と世界に向かって中継されたことに違和感を覚えた。ずばり、五輪が一部文化人によって「乗っ取られた(ハイジャックされた)」と。
五輪開会式は、世界全体にただで(?)中継されるという利点に「悪乗り」して、公演を主導した文化人は、およそ五輪と無関係な内容の公演を、四時間も流し続け、一方的な主張を世界中に「押し付けた」訳だ。プロパガンダしたい勢力にとって、こんなうまい話は滅多にないであろう。
しかるに、公演の内容は、多分に政治性を帯びるものであった。五輪は政治的に中立でなければならない筈であり、その観点からも、由々しき事態だ。総じて、五輪精神に反しており、参加各国の期待を裏切る行為でもある。
式典評価に関わる一連の論争は、現在の国際社会の姿を――特に、国際的に展開されているリベラル派と保守派の間の「文明・文化戦争」を――ビビッドに反映している。これを一瞥することは、特に西洋圏における現代文明の「相」を把握する意味で有益だ。
「独りよがり」で「退屈」
まず、人々は何を批判し、何に反発したかを見てみよう。
本来であれば、四時間に及んだパフォーマンスをざっとでも振り返って、その障りだけでも紹介するのが筋かと思う。
が、取り上げられたエピソードは、ギロチンで切り落とされた自分の首を持つ王妃マリー・アントワネットから、ルーブルの絵画から抜け出した人物が開会式を眺めるシーン、中世から現代まで時代を切り開いて来た10人の女性の登場、更には、最後の晩餐のパロディーなどまで、多岐に及んでおり、この詰め込み過ぎというか、「てんこ盛り」のメニューをすっきりまとめることは不可能だ。
そこで、以下では、今回の演出に対し浴びせられた各般の批判・反発を紹介することをもって、公演の紹介に替えることとする。
最も広く聞かれた批判は、今回の文化公演は、宗教、就中、キリスト教を冒涜し、20億人に上るキリスト教徒の心を傷つけたという点であった。特に、L.ダビンチの名画「最後の晩餐」をパロディー化し、怪しげな人物を配置して「おちょくった」ことを問題視する声が強かった。ローマ教皇を筆頭に、カトリック教会だけでなく多くのキリスト教指導者が強く反応したことは言うまでもない。
そのパロディーはもとより、多くのシーンに、ドラァグクイーン(女装した男性)、トランスジェンダー、ほぼ全裸の歌手(煽情的な歌を披露)、キスしあい戯れる三人の男女の道化師などを、次々と登場させ、「性」のオンパレードであったことに嫌悪感を表する向きもあった。
他方で、内容・テーマが「てんこ盛り」で、まとまりに欠け、「退屈」に感じた人が少なくなかったとの指摘(筆者もそのひとりである)、更には、この文化祭が、時間的にも分量的にも過多であったため、本来主役であるべき選手が霞んでしまったことを問題視する声も少なくなかった。
つまり、反キリスト教的であるという批判、LGBTQ色が強かったと言う批判に加え、「独りよがり」で「退屈」だったとの批判も聞かれたということだ。