まさに「この一文以外にはない」という、本質も本質だ。
当り前じゃないかと思うだろうが、それが当たり前ではなくなっているのが現在であり、過去もそうだったのである。
そして、事実が確認できないこと、わからないこと、知らないことは正直にそう述べるべきだとも説く。こうしたことができない「知ったかぶりジャーナリスト」も多いのではないか。
率直に言って、事実確認のプロセス以前に、一般人の情報収集・事実確認能力にも満たない自称・ジャーナリストが存在する。ネット時代はそれに更なる拍車をかけてもいる。専門的な前提知識がなくても検索すれば識別できるような真偽すらも確認できないまま、数千、数万の単位の読者・視聴者に「情報を売っている」ジャーナリストさえいる。
本書では「編集者」の役割も指摘されているが、ネットでの発信、特に動画には「動画を編集する」人はいても、内容に突っ込んだ編集作業に当たる立場の人間がいないケースも少なくない。
「複数の関係者が証言した」という一文に「複数とは何人ですか」「関係者とはどの範囲の人を指しますか」などと、突っ込みを入れるのが編集者の役割だと本書は説く。情報を届ける責任は、ジャーナリストだけでなく編集者にもあるのだ。
嘘情報で読者の認知がゆがむ
もちろん、事実確認を入念に行うジャーナリストであっても、時に間違えることはあるだろう。そこで本書も説く「透明性」が重要になるのだが、透明性を担保できないどころか、訂正も謝罪もしないまま、さらなる誤報やミスリードを重ねる向きも少なくない。
一億総発信者の時代とは、こういうものなのかと嘆息するほかないが、本書はこうした事態にも諦めることなく、ネット上の問題を引きながら「ジャーナリストかくあるべき」を提示していくのだ。
中立を装いながらも実際はプロパガンダでしかない報道を、どう考えるべきか。
取材対象から独立を保たなければならないジャーナリストは、自らの「党派性」とジャーナリズムの間でどう整合性をつけるべきなのか。
少なくとも立場との葛藤があってしかるべきではないのか。
「ジャーナリズムとは、ここまで徹底しなければならないのか」と考えさせられるその姿勢には、頭が下がるほかない。
冒頭で紹介した読売新聞の例は、社内の指摘で捏造を認めるに至ったからまだしも、こうした「組織の力」が働かなくなってきているのがネットの時代と言えるかもしれない。
代わりに読者・視聴者が個別に声をあげたり、プラットフォームを提供するIT企業に虚偽の情報や名誉棄損であることを「通報」する形で正していくしかない。
それまでの一方通行が主だったマスメディアとは違う、こうしたネットのありようは、黎明期には「集合知」のような形で評価されもした。
だが、日々新しい情報が怒涛の勢いで流れていく現在、すべての発信についての真偽を情報の受け手が判断し、間違いがあれば通報し正していくというのはほとんど不可能に近い。とんでもないデマ情報でもそのまま流れていき、信じ込んだ人たちの認知がゆがんでいくのだ。
その名を背負うのにふさわしいのは……
ジャーナリストには資格試験はない。新聞社やテレビ局なら入社試験はあるが、それは必ずしもジャーナリストとしての適性を判断しうるものではないし、個人で活動するジャーナリストは多くが自称である。
それはそれで構わないが、本書のような徹底的な自問自答、葛藤、ジャーナリズムの追及があってこそ、その肩書を背負うにふさわしいのではないか。
いや、そうした肩書を持たずとも、全世界に向けて情報で発信する以上は、本書の議論、せめて一端(「事実を確認せよ!」)だけでも噛みしめてから乗り出すべきだと考えさせられるのだ。