中国大陸の一番遠いところ
ウイグルの母と言われたラビア・カーディルさんにお話をうかがったのは、もう15年も前のことになる。
当初は中国共産党の改革開放の波に乗り、洗濯屋から大富豪にまで上り詰め、共産党の委員を務め、北京で開催された国連主催の世界女性会議に中国代表として出席。中国共産党体制下で最も成功した女性ウイグル人として、当局側も多民族国家としてのアイコンにしていた節がある。
ところが1990年代末に演説や活動が政治的であるとみなされ、投獄。息子や夫も投獄されるなど、まさに手のひら返しが行われた。2005年に病気を理由に解放されると、直後にアメリカに亡命。以降は中国によるウイグル人弾圧を世界に訴え、国際的なウイグル民族活動の中心人物となった。
家族もろとも投獄され、虐待や拷問を受けながらも、なぜ中国のような強大な存在を相手に戦い続けるのか。ラビア氏に尋ねると、「私自身が『国』であるからだ」との答えが返ってきたのを覚えている。
ウイグル人としての生き方、記憶、歴史、文化、習俗を持っている人が生きて、強制的な同化に抗っている間は、ウイグル人は滅びない。その意志が消えたときにこそ、国、民族は消えるのだと言わんばかりだった。
西谷格『一九八四+四〇――ウイグル潜行』(小学館)を読んで、その言葉を思い出した。
地方紙記者のち、中国在住ライターとしてホスト業などに従事した経験のルポや、香港デモに関する著作を持つ西谷氏が、〈中国大陸の一番遠いところ〉を見てみたくなって新疆ウイグル地区へ向かった。そこで見聞きしたウイグル人たちの暮らしぶりや、新疆の現状、そして西谷氏本人が見舞われた冷や汗と脂汗が一緒に出るような体験がつづられている。
西谷氏の質問に、何かブレーキがかかったかのように口をつぐんだり、ことさらにモスクの存在を否定するウイグル人たちも登場する。何がそうさせているのか、答えは明らかで、中国当局の監視の目が厳しいことによるものだ。物理的にモスクを破壊し、心の中にまで影響を及ぼす中国当局の姿が見て取れる。
中国当局はラビア氏の言わんとするところがわかっているからこそ、単なる同化だけではなく、ウイグル人がウイグル人として受け継いできたものを根こそぎ断とうしているのだろう。
だが本書からは力で押し切ろうとする中国当局の実態が見える一方で、それを「人権軽視」などと非難しさえすればいいといった単純な話では済まない状況が存在することも見えてくるのだ。
タクシー内の会話も聞かれている?
西谷氏は新彊ウイグル自治区内の都市や村を訪れ、ウイグル人の「素朴な所感」を得ようと様々な質問をしている。「モスクが壊されて残念ではありませんか」「イスラム教を信じていますか」「ウイグル語を習わないのはさみしくありませんか」などなど。
だが、返答からはどうにも彼らの本音や心情が見えてこないのだという。
まるで、お互いの心理を探り合う「人狼ゲーム(会話や推理によってオオカミに化けた人間を探り出すゲーム)」のように、相手が何を聞き出そうとしているかをうかがい、差しさわりのない回答を繰り出す。
思わず踏み込んだ会話をすると、たちどころに「誰か」に察知される。ケリヤ県で拾ったタクシーの運転手はウイグル人で「訓練所」に行ったと話していた。
にもかかわらず、どこからかかかってきた電話ののちに話を「訓練所」に戻そうとすると、態度を一変。「あれは冗談、施設に入っていたことはない」と言い出したという。
会話をどこかで聞かれていたのか、タクシー内にカメラやマイクがあったのかはわからない。AI監獄と呼ばれるテクノロジー事態も殺伐としているが、それを前提として自分の発する言葉を自己規制している人々の心持ちにこそ、何か殺伐としたものを感じてしまう。
そうした様子は、危険、恐怖という以上に、「息が詰まる」という言葉で表現する方が実態に合っていて、本を読んでいるこちらも思わず呼吸が苦しくなるほどだ。思っているはずのことを言わない、あるいは感じていることそれ自体を否定しようとする人々の心の動きが、西谷氏とのやり取りから感じ取れるからだ。