【読書亡羊】原爆スパイの評伝を今読むべき3つの理由  アン・ハーゲドン『スリーパー・エージェント――潜伏工作員』(作品社)

【読書亡羊】原爆スパイの評伝を今読むべき3つの理由  アン・ハーゲドン『スリーパー・エージェント――潜伏工作員』(作品社)

その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする時事書評!


描かれなかった広島・長崎

「スパイのその後」と言えば「祖国に帰還して英雄になる」か「スパイとばれて逮捕・処刑」か「司法取引でスパイの全容を洗いざらい話す」というのが大体のパターンだが、コヴァルはこれらとは全く違う「その後」を歩んでいる。

「発覚しなかった=完璧に任務を達成したスパイ」の行く末とはこういうものなのかと感心してしまった。

ただし、日本人である以上、どうしても気になる本書と『オッペンハイマー』の共通点として、「当の原爆を落とされた広島・長崎の描写はごくわずかである」ことは指摘しておきたい。

『オッペンハイマー』は未鑑賞だが、解説によると広島・長崎の原爆投下の事実には触れられるものの、「オッペンハイマー自身が実際に目撃していないから」という理由で、被害に関する直接的な描写はないという(間接的に被害に対する制作陣の意図がわかるシーンはあるようだが)。

その点は本書も同様で、原爆投下についての描写は、投下の事実とそれによるアメリカ政府や軍の秘密保持の動きに関する記述にとどまっている。

もちろん、本書も映画も「原爆被害」そのものを描くことが主眼ではないのだが、日本人としては「被害についてもぜひ知っておいてくれ!!」と声を大にして言いたい面はある。 

アメリカに渡ったユダヤ人

そして三つ目の理由はこれまでにも書いてきた通り、コヴァルがユダヤ人であることだ。

帝政ロシア末期の20世紀初頭、当地では「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人に対する殺戮、排斥運動が起きていた。コヴァルの両親はこの惨劇から逃れるためにアメリカに渡ったユダヤ人であった。

そのため、コヴァルはアメリカ生まれのアメリカ育ちで、成績優秀な青年であった。ところが、新天地であるはずのアメリカにも差別が待っていた。ロシア革命を経たソ連に対するアメリカの警戒心が高まり、中でもユダヤ人に対しては「共産主義者」というレッテルが貼られたという。

これ自体はレッテルなのだが、実際にコヴァルの両親は熱心な社会主義者であったため、ついにアメリカにいづらくなり、一家は再び祖国ソ連へ戻ることになる。そしてコヴァルはモスクワの大学で科学を学んだが、赤軍参謀本部情報総局(GRU)に目をつけられてしまう。

アメリカ生まれで流暢な英語を話すことができる一方、社会主義の理念を信じ、科学的知識も申し分なし、と技術系スパイとしてはもってこいの人材だったのだ。

関連する投稿


【読書亡羊】自民党総裁選候補者、全員の著作を読んでみた!

【読書亡羊】自民党総裁選候補者、全員の著作を読んでみた!

その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする時事書評!


【読書亡羊】データが浮かび上がらせる「元自衛隊員」の姿とは  ミリタリー・カルチャー研究会『元自衛隊員は自衛隊をどうみているか』(青弓社)

【読書亡羊】データが浮かび上がらせる「元自衛隊員」の姿とは ミリタリー・カルチャー研究会『元自衛隊員は自衛隊をどうみているか』(青弓社)

その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする時事書評!


【読書亡羊】議員が総裁選に出る「もう一つの目的」とは?  高村正彦・兼原信克・川島真・竹中治堅・細谷雄一『冷戦後の日本外交』(新潮選書)

【読書亡羊】議員が総裁選に出る「もう一つの目的」とは? 高村正彦・兼原信克・川島真・竹中治堅・細谷雄一『冷戦後の日本外交』(新潮選書)

その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする時事書評!


【読書亡羊】サイバー安全保障を「机上の空論」にしないために  小宮山功一朗・小泉悠『サイバースペースの地政学』(ハヤカワ新書)

【読書亡羊】サイバー安全保障を「机上の空論」にしないために 小宮山功一朗・小泉悠『サイバースペースの地政学』(ハヤカワ新書)

その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする時事書評!


【読書亡羊】初めて投票した時のことを覚えていますか? マイケル・ブルーター、サラ・ハリソン著『投票の政治心理学』(みすず書房)

【読書亡羊】初めて投票した時のことを覚えていますか? マイケル・ブルーター、サラ・ハリソン著『投票の政治心理学』(みすず書房)

その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする時事書評!


最新の投稿


なべやかん遺産|「スーパーパワー」

なべやかん遺産|「スーパーパワー」

芸人にして、日本屈指のコレクターでもある、なべやかん。 そのマニアックなコレクションを紹介する月刊『Hanada』の好評連載「なべやかん遺産」がますますパワーアップして「Hanadaプラス」にお引越し! 今回は「スーパーパワー」!


【今週のサンモニ】石破氏を美化していた『サンモニ』|藤原かずえ

【今週のサンモニ】石破氏を美化していた『サンモニ』|藤原かずえ

『Hanada』プラス連載「今週もおかしな報道ばかりをしている『サンデーモーニング』を藤原かずえさんがデータとロジックで滅多斬り」、略して【今週のサンモニ】。


【読書亡羊】自民党総裁選候補者、全員の著作を読んでみた!

【読書亡羊】自民党総裁選候補者、全員の著作を読んでみた!

その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする時事書評!


石破新総裁がなぜ党員票で強かったのか|和田政宗

石破新総裁がなぜ党員票で強かったのか|和田政宗

9月27日、自民党新総裁に石破茂元幹事長が選出された。決選投票で高市早苗氏はなぜ逆転されたのか。小泉進次郎氏はなぜ党員票で「惨敗」したのか。石破新総裁〝誕生〟の舞台裏から、今後の展望までを記す。


【今週のサンモニ】生産性なし、難癖ばかりの「アンチ自民党」放送局TBS|藤原かずえ

【今週のサンモニ】生産性なし、難癖ばかりの「アンチ自民党」放送局TBS|藤原かずえ

『Hanada』プラス連載「今週もおかしな報道ばかりをしている『サンデーモーニング』を藤原かずえさんがデータとロジックで滅多斬り」、略して【今週のサンモニ】。