「大いなる異変」があった内閣改造
岸田文雄総理が断行した内閣改造と党役員人事。「挙党一致をめざした派閥均衡型」「刷新感に乏しい」「安倍派に一定の配慮」など、大手メディアの評価は概ね60点くらいの可もなく不可もない、「岸田総理らしい総花的人事」という論評が多い。
しかし私は今回の人事に「大いなる異変」を見てとる。「優柔不断から唯我独尊へ」。安倍晋三元総理という重石から解放された岸田文雄という政治家が、その本性を剥き出しにした「岸田の岸田による岸田のための政治」の始まりである。
今回の人事はその陣容は別にして、政治記者的に見れば2つの観点から「大いなる異変」があった。
まずは日程の大幅前倒しだ。本来は内閣改造は9月から10月にかけて行われるものと見られていて、官邸側もそうした噂を否定していなかった。政治家にとってはお盆は地元の有権者と向き合う1年で最も重要な時期だ。
この1年で亡くなった支持者の「新盆参り」は後援会維持のために絶対に外せない必須の行事だし、夏祭りや各地の夏のイベントは有権者の心が緩む絶好のアピールチャンスだ。この時にどの肩書きでどんな名刺を配るかは、政治家にとって非常に重要になってくる。
そういう意味では、9月以降と思われていた内閣改造がお盆前に繰り上がったのは永田町的には大事件だ。
今回人事が大幅に前倒しされたのは、安倍元総理の死後、急落し始めた内閣支持率が長期低落傾向に入るのを防ぐためと見られている。
しかしそのタイミングをお盆直前に持ってきたのは、人目を気にする岸田総理らしからぬ、我欲を優先させた「決断」と言える。
権力とジャーナリズムの緊張感
そして今回の人事にはもうひとつ、メディア的には非常に大きな異変があった。
1990年代の森政権までの歴代内閣は、組閣や内閣改造の際には派閥均衡型の人事を基本としていた。
各派閥の領袖は入閣させたい適齢期の派閥メンバーのリストを総理に渡して、総理は基本的にはその中から誰をどの大臣にするか決めた。
そして陣容を決めると入閣内定者には前日までに閣僚抜擢の事実と登用ポストを告知した。
だから各メディアは、派閥の領袖を取材して派閥からの入閣推薦者を聞き出し、彼らを組閣直前にマークしておけば、組閣前日には新内閣の全容を完全に把握することができた。
この慣例をぶち破ったのが2000年に総理となった小泉純一郎である。
「自民党をぶっ壊す」と宣言して総裁選を勝ち切った「公約」通り、組閣にあたっては派閥からの推薦を拒絶して人材を一本釣りした。そして入閣予定者には登用ポストは伝えず「◯月◯日朝何時に官邸に来るように」とだけ指示した。そしてこうした連絡があったことも、メディアには伝えないよう釘を刺す念の入れようだった。
これによって泡を食ったのが大手メディアだ。派閥を取材しても候補者とおぼしき政治家を取材しても、組閣の陣容が事前に全く把握できなくなってしまったのだ。
人事の陣容を知っているのは、小泉総理と飯島勲総理秘書官だけとなった。そして総理が信頼するごく一部の官房長官や官房副長官が人事の骨格や一部の重要閣僚の名前を把握している、というような事態となった。
組閣の朝にその陣容が打てなくなった各メディアは、官邸取材により注力するようになる。こうして「官邸主導」「派閥の弱体化」がジャーナリズムの世界でも進行していったのである。
小泉政権以降は、マスコミとの馴れ合いを止め、組閣人事を事前に漏らすことはなくなった。
2000年以降、政治メディアの権力におもねる傾向が薄まっていき、対決色を全面に押し出すようになっていったことも、こうした「権力とジャーナリズムの緊張感」と無関係ではない。