沖縄の祖国復帰50周年の記念行事があちこちで行われたが、沖縄の人たちの心からの喜びの気持ちはあまり伝わってこなかった。代表的なコメントは、両親が沖縄出身の作家、仲村清司氏が5月14日付の朝日新聞で述べた「沖縄が、日本という国の一つの県、地方になりかかっている。沖縄にとって明るいことが待っているのかは、わかりません」という談話だ。見出しは「ヤマト化進み 終わる戦後」である。
400年の恨み
筆者は沖縄の祖国復帰直前に当たる1969年から70年までの1年強、那覇に滞在していた。島中どこへ行っても赤ハチマキに赤タスキで「全面復帰」が叫ばれていた。その中で耳にしたのは、ヤマトンチュー(本土人)とウチナンチュー(沖縄人)の対立の構図だ。
新聞、テレビの特集番組では「先の戦争で県民4人に1人が犠牲になったことが沖縄の人々の精神的傷跡になっている」との解説が少なくなかったが、現地の琉球史家の大方が指摘していたのはさらに長い歴史である。
彼らは、沖縄が三つの「ユガワイ」(世変わり)を経験したと語る。第一は、1609年の薩摩藩による軍事行動で、以来、琉球王国は中国と薩摩藩の双方の属国となる異常な状況が続く。第二は、明治維新に伴う琉球藩の設置、沖縄県への移行だ。琉球王は東京に藩邸を置き、沖縄へ帰ることはなかった。第三は「沖縄が日本の仕掛けた対米戦争の犠牲になった」ことだ。ヤマトンチューの立場としては、日本と米国の戦争で、沖縄だけでなく東京などの主要都市も爆撃され、とりわけ広島、長崎は原子爆弾の被害に遭った、と指摘したいのだが、これを言い出すと感情的にもつれてしまう。
沖縄の祖国復帰が叫ばれるようになる前に、沖縄では日の丸掲揚運動が始まった。佐藤栄作政権とニクソン米政権の間で沖縄返還交渉が始まると、「日の丸」は姿を消し、赤ハチマキ、赤タスキに代わった。1969年11月、沖縄返還に関する日米共同声明が発表されたころには、「即時、無条件、全面返還」や「琉球独立」論が台頭した。全て本土政府にとって実行不可能な要求であった。
沖縄返還の「核抜き」(沖縄からの核兵器撤去)の要求をニクソン政権がのんだことは、米国から中国への関係改善のシグナルとなり、ニクソン大統領の歴史的な訪中につながった。「核抜き」で最も喜ぶ国が中国であったことを、日本は今でも理解しているだろうか。
東京と那覇の視点を理解しよう
普天間基地の辺野古移転に限らず、沖縄関連の問題は複雑だが、解決策は平凡である。那覇は東京の視点を、東京は那覇の視点を、それぞれ相手の立場に立って理解するほかにない。本土復帰が決まった後、本土企業が沖縄に進出するに当たり、「沖縄日本人会」を設立しようというあきれた動きが一部にあった。復帰から半世紀を経て、ヤマトンチューとウチナンチューの対立を口にする者は少なくなったのではないか。お互い日本人、沖縄文化の独自性は尊重しつつ、東京も那覇も国際情勢に目を凝らす時代に入ってほしい。(2022.05.16国家基本問題研究所「今週の直言」より転載)