文末には〈トランプ前大統領とバイデン大統領は、本書のためのインタビューを拒否した〉とあるが(ただし前作でトランプはオンレコ取材に応じている)、本人に聞かずとも、これだけの記述が徹底した取材で可能になるのかとかえって驚いた。
翻って本邦はどうか。本書(邦訳版)と時を同じくして発売された日テレ政治部記者・柳沢高志『孤独の宰相―菅義偉とは何者だったのか』(文藝春秋)と比べると、かなり差があると言わざるを得ない。
『孤独の宰相』は菅前総理の信頼を得た記者だけが聞き得た、直接あるいは電話による「菅総理の生の声」をふんだんに取り上げている。だが、単に日々交わされた柳沢記者との会話とその時の政治状況が羅列されるのが大半で、その「生の声」をあえて掲載したことの政治的・歴史的な重みが、さほど読み取れないのだ。
ウッドワードは二百人に数百時間取材
一部報道によれば、菅前総理と柳沢記者とのやりとりはあくまで「オフレコ」前提であり、ウッドワードらの取材のように「録音・公開を承諾」したものではないという。
もちろん、政治的・歴史的な意味合いが勝れば「オフレコ破り」はむしろ記者としてとるべき手段だろう。だが『孤独の宰相』の多くの部分は、オフレコ破りをしてまで掲載する意味があったのか、疑問なのだ。
多少、極端な例ではあるが一例を紹介しよう。官房長時代の菅がトランプ政権のペンス副大統領と会談した後の場面。セントラルパークでの散歩を楽しみにしていた菅が秘書官にこう述べたという。
「浮かれた感じで報道されると、昨日までの完璧な成果が台無しになるから、緊張感を持って歩こう」
どこまでも慎重さを崩さない菅らしい言葉だった。