ところが、石破氏は小泉純一郎内閣の防衛庁長官(当時)に抜擢されると、拉致問題から手を引いていく。防衛庁長官就任直後には、筆者に「拉致議連会長だったということで、福田康夫官房長官に怖い人かと思われていた。腫れ物に触るようだったよ」と苦笑していたが、のちには取り込まれていく。
「福田さんは、私の父が元建設官僚で鳥取県知事の石破二朗だと知ると、『なんだ、君は官僚の息子か』と打ち解けてきた」
石破氏は2014年9月の安倍首相による内閣改造の際には、首相とは集団的自衛権を含む安全保障政策に関する考え方が違う、と打診された安全保障法制担当相を固辞した。
一見筋が通っていそうだが、北朝鮮に宥和的で安保政策には関心が薄く理解もない福田に、簡単に籠絡されたのだった。
石破氏は拉致議連会長就任時には、筆者のインタビューに次のように答えていた。
「とにかく行動すること、北朝鮮に毅然たる姿勢で臨むことの二点に議連の意味がある。日本はこれまで、コメ支援や朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)への援助など、太陽政策的な措置を何度もとってきた。それなのに北朝鮮は、『行方不明者(拉致犠牲者)は捜したがいなかった』と非常に不誠実な答えを返し、ミサイルを撃ち、工作船を航行させるという行動に出ている」
「この問題を歴史認識や戦後補償と絡める人もいるが、拉致犠牲者の返還要求とは全く別問題であり、切り離すべきだ。拉致容疑は人権問題でもあるが、それ以前に国家主権の侵害だ」
「日本の被害を国際社会に認知させないといけない。そして、北朝鮮に『国際社会は敵に回せない』 『拉致犠牲者を帰さないとわが国は立ち行かない』と理解させることが必要だ。北朝鮮の暴発を恐れる向きもあるが、日本にすきがあり、成算があるからこそ暴発する。暴発しても何も得られないと思わせる国家態勢を作っていかなければならない」
それこそ正論である。ところが石破氏は変節していき、2018年6月には、北朝鮮に宥和的で拉致被害者家族から警戒されている日朝国交正常化推進議員連盟(衛藤征士郎会長)の会合に姿を現すまでになった。
自衛官からの拒否反応
拉致問題に関する考え方がいつ、どのようなことがきっかけで変わったのか。寡聞にして石破氏が説明したという話を知らない。拉致被害者家族から信用されないのも当然だと言えよう。
また、石破氏が得意分野である国防を担う自衛官たちに、あまりに人望がない点も気にかかる。筆者は多数の幹部自衛官や自衛官OBから、石破氏を忌避する言葉を聞いた。元自衛官トップの一人はこう吐き捨てた。
「石破さんは肝心なときに逃げる。防衛相時代は、部下をかばわず責任を押し付けた。自衛官は彼を信用していない」
不信の背景の一つは、2008年2月に起きた海上自衛隊のイージス艦と漁船との衝突事故である。このとき、防衛相だった石破氏は、事故の責任が自衛艦と漁船のどちらにあるかも判明していないにもかかわらず、漁船が所属する漁協や遺族宅を訪れ、直接謝罪を行った。
一方で、当時の海上幕僚長らを更迭するなど自衛隊側に厳しい処分を下したが、結局、業務上過失致死罪などで起訴された当直の水雷長と航海長は、無罪判決が確定している。
守ってくれるはずの親分に、身に覚えのない処分をされたり、叱責されたりした自衛官側はたまったものではない。
防衛庁長官時代、イラク派遣部隊の現場視察が計画された際に、複数回にわたって視察をドタキャンしたことも士気を下げた。
筆者は石破氏が防衛庁副長官だった当時には、「石破氏の話を聞いてみたい」という自衛隊の中堅幹部を連れて、焼き鳥持参で石破氏の宿舎を訪ね、缶ビールを片手に和気あいあいと談笑したこともある。
とはいえ、肝心の組織トップとなった際の振る舞いで失望を買うようでは仕方がない。自衛隊の最高指揮官としてふさわしくないと、自衛官自身が拒否反応を示している。