前代未聞の静かな東京の景色を見ていて、ふと、私たちの先人が「疫病」といかに向き合ってきたのか、について疑問が湧いた。
日本最古の歴史書『日本書紀』には、第十代・崇神(すじん)天皇の御代(西暦では3世紀後半~4世紀前半)に「疫病で国民の大半が死亡した」という記述があるが、どうやらこれが日本史上初の「疫病」の記録のようだ。
若き畏友で歴史学者の久野潤氏に尋ねると、即、次のような答えが返ってきた。
「どのぐらいの死者が出たかは学者の間でも議論のあるところですが、このときの疫病対策の結果として伊勢神宮ができたのです」
久野氏の話を要約するとこうだ。
日本における政(まつりごと)は、皇祖神である天照大御神が、孫の瓊々杵命(ににぎのみこと)に三種の神器[八咫(やた)の鏡、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)]を授け、豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)を高天原(たかまがはら)のようにすばらしい国にするため、天降るように命じたことから始まる(天孫降臨)。
初代・神武天皇から現代まで、この三種の神器は天皇により受け継がれてきたが、当初これらはすべて皇居のなかで祀られていた。
しかし十代・崇神皇の御代で疫病が大流行し、国家存亡の危機に直面した際、それまでの「まつりごと」に誤りがあったのではないかと省みられた。ここで言う「まつりごと」とは、政と祭祀の両方の意味を持つ。
その結果、ご先祖だとは言え、人間である自分たちの居城内に天照大御神を祀ることは不敬だったのではないかとの結論に至り、天照大御神を表す八咫の鏡を然るべき場所にお祀りしようと外に移す。ここで疫病禍は収まった。
その後、さまざま経緯を経て、次の垂仁(すいじん)天皇の御代に、伊勢に祀られることとなる。
話の最後に久野氏はこう付け加えた。
「私は何も、今回のウイルス終息を願って、第二の伊勢神宮を建てたらいいと言うわけではありませんよ」
もちろん、そんな誤解はしていない。氏の話からわかることは、日本人は疫病を、制圧すべき対象とのみ捉えてきたのではないということだ。我々の先人は、多くの犠牲を払うなかで謙虚に自らを省み、社会を良き方向へ変えていく「奇貨」としてきたのである。
今回の武漢ウイルス禍に向き合う安倍総理と私たちは、明日から、伊勢に向かって遥拝(ようはい)することから始めるべきかもしれない。
(初出:月刊『Hanada』2020年6月号)
著者略歴
ジャーナリスト。1962年生まれ。東京外国語大学卒業。旅行雑誌編集長、上場企業の広報担当を経験したのち独立。現在は編集・企画会社を経営するかたわら、世界中を取材し、チベット・ウイグル問題、日中関係、日本の国内政治をテーマに執筆。ネットメディア「真相深入り! 虎ノ門ニュース」、ニッポン放送「飯田浩二のOK! Cozy Up」レギュラーコメンテーター。著書に、『「小池劇場」が日本を滅ぼす」(幻冬舎)、『リベラルの中国認識が日本を滅ぼす―日中関係とプロパガンダ』(石平氏と共著、産経新聞出版)、『「日本国紀」の副読本 学校が教えない日本史』(百田尚樹氏と共著、産経新聞出版)、『「日本国紀」の天皇論 』(百田尚樹氏と共著、産経新聞出版)など。