実像からかけ離れる「脅威のインフレ」現象
特に注目すべきは、松本氏の専門分野である中国に関する情報分析だ。中国が野心的に自身の影響力の及ぶ範囲を拡大せんとしている「脅威」であることは自明のことになりつつあるが、ではその「実」を正確に把握できているかと言えば心もとない。
松本氏は、現在の「中国脅威論」は「脅威のインフレーション」になっているのではないかとの懸念を示す。脅威を論じる場合には「意図」と「能力」の分析が必要とされるが、現在の中国の脅威を見積もるうえでの言説は、能力分析が過多で意図分析が希薄だという。
「いやいや、中国が『中華帝国の復活』『中華民族の夢』を掲げて、海洋進出を図り、周辺国との摩擦を高め、台湾統一を企図していることは火を見るより明らかじゃないか」
そんな声も聞こえてきそうだが、「中華帝国の復活」はあくまでもキャッチフレーズにすぎず、それだけでは「意図分析」の域には達しない。「ではその『中華帝国の復活』の意図するところは、ユーラシア大陸の席巻なのか。実際に中国軍が力を入れているのはそのための装備なのか」を「更問い」しながら実際の脅威認識を見積もっていくことが求められる。
松本氏は決して中国の脅威を低く見積もるスタンスを取ってはいないが〈国内の諸問題から国民の目をそらそうとして「中華民族の偉大な復興」を掲げて軍事力を誇示する側面があることを忘れてはならない〉と説く。
組織には「鼻つまみ者」も必要
本書は、中国を相手とする自衛隊の情報マンがどのようにその任務を行ってきたか、その現場を綴ったものであると同時に、自衛隊入隊までに至る松本氏自身の半生をつづったものでもある。
そこには、松本氏の出身大学である東京外語大学で教鞭をとった中嶋嶺雄氏の懐かしい名前を見つけることもできる。情報に関心のある人だけでなく、親戚縁者を含め、自衛隊との接点がなかった一人の人物が自衛官になり、何を経験して、退職して何を考えているかを知る読み物としても興味深い。
また、情報分析官の習い性の面もあるかもしれないが、それに限らず、自分が所属する組織のありように対して常に「これでいいのか」「もう少しこうすべきでは」という視点を持ち続ける人はいる。こういう人物は組織にとっては時に面倒な人間となり、時に鼻つまみ者にすらなりかねない。
本書でもイニシャルになってはいるものの、自衛隊元高官に対する厳しい注文が書かれているし、自衛隊という組織のあり方、情報の扱い方に対する苦言も呈している。事情の分かる関係者が見ればギョッとするような事実も、さらりと明かされている。
だが、規模の大小を問わず、組織にはこういう視点を持つ人間が必要なのだろうとも思う。