Qアノン的な事件とは何か
本書を読むと危機感を覚えると同時に理解できるのは、Qアノンの世界観は、そのまま日本に当てはめられるものではないということだ。聖書の記述や暗示、暗喩というものに対する文化的な素地が違うからだ。
日本でも部分的に大統領選陰謀論を信じて拡散したり、バイデンが小児性愛者だと思い込んだりする人は(情報発信を生業にする人の中にも)いる。だが、多くは個々の事例に反応しているだけで、聖書のごとき大きな世界観を形成し、信じ込むまでには至らない。今のところ日本で陰謀論者が殺人事件を犯したという例もない。
この点で言えば、実は最も行動系Qアノンの犯行に近いのは、安倍晋三元総理銃撃事件だったのではないかとさえ思う。統一教会と自民党の関係こそ(程度はともかく)「事実」として存在してはいるが、論理の飛躍、行動の結果はSNSで他者を攻撃している段階の人間よりもはるかに「行動するQアノン」的だ。
ただ、情報リテラシーに関しては、日本もまるで他人ごとではない。確かな根拠がなくても「ノリ」で他者を攻撃する人、流行言葉をなんにでも使う人、それさえ言っていればある種の党派性の中で認められると思い込んでいる人など、「Qアノン的」な現象は日本のSNSでも毎日起きている。
陰謀論批判に対しては必ず「陰謀論の定義とは何か」「何もかも陰謀論扱いしていては、巨悪を見逃すことになり、政治の実態に迫ることができない」「陰謀、陰謀というけれど、それ以外に自分の疑問に答えてくれるものがない」「メディアも信用ならない」というような反論がある。
確かに頷ける部分もなくはないし、「大メディア、左派マスコミが信用できない」という気持ちも分かる。また、本書の解説は「元ネトウヨ」を公言している京都府立大学准教授の秦正樹氏が寄せているが、秦氏が「ネトウヨに目覚めた」きっかけは「事実」ではあった。
「事実」すら、並べ方、捉え方次第ではリテラシーのない認識に至ってしまう。ではどうすればいいのか? 慶応大学の鶴岡路人准教授の言を引きたい。
政府やマスコミや専門家の見方をすぐに信じず、疑ってみる姿勢は重要。教育はそのためにある。でもだとしたら、「政府もマスコミも専門家も皆嘘つきだが俺だけが本当のことを知っている」という主張にはさらに疑ってかかるべき。そのうえで信じると決めるのは自由でも、真偽を問い続ける必要がある。
まさにこれに尽きるというべきだろう。