Qアノンの中の”多様性”
一方、日々大量の情報が飛び交い、瞬時に「どう反応するのが”正解”か」を迫られるSNS社会で、疑って、精査して、自分なりの立ち位置を持ちながらも、それすらも疑い続ける、というのはよほど自覚的でいない限り、至難の業でもある。
しかもSNSで発信することが「大きなもののための戦い」の一環になっていると認識されていればなおのこと、いち早く、誰よりも大量に発信しなければならないという心理に至る。
Qアノンも、「自分たちが住む世界のため、社会のため」に荒唐無稽としか思えない言説を信じ込み、他者を攻撃し、議会に突入し、実際に殺人事件まで起こしているのだ。
また、「SNS上で他者攻撃に勤しんでいる人」にもグラデーションがあり、何かのアンチ、煽動されただけの人、愉快犯、本当にそれが「大事なもの」のためになると信じ込んでいる人、物事を単純化して理解した気になっている人、標的を求めているだけのうっぷん晴らしの人、単なる暇つぶしなどさまざまなケースがあるだろう。
本書でも、育児に問題があり子供が保護されたのをQアノン仲間と連帯して取り返そうとし、誘拐の罪に問われた人の例が紹介されている。Qアノンについても、その動機、経緯など、その枠の中での”多様性”はあるのだ。
一色に見えるある現象でも、丁寧に腑分けして対処する必要があることも、本書は教えてくれる。
親でも「まったく理解できない」
「まったく理解できません」とデイヴィッドが私に言う。「理性のある人間がこんなたわ言に騙されるなんて、そんな気持ちわかるわけありませんよ。どうしたら共感できるんですか?」
これは息子がQアノンになってしまった父親の述懐だ(第10章)。
急に一方向に流れて、常人には理解できない内容を異口同音に書き込むSNS上の人々に遭遇すれば、このデイヴィッドと同じ気持ちになるだろう。
本書では、知人や身内が陰謀論者になった場合の対処案が紹介されているが、筆者自身、その効果にはどこか懐疑的な様子だ。
結局は、Qアノン的な世界観に「目覚めた」時と同じように、現実に「目覚める」しかない、しかも自分から、能動的にということしか言いようがない。やはり自立や自律、自制の精神を身につけるほかないのだ。