「犠牲者」が強みに化けた理由
通常、ナショナリズムを喚起するのは「強い国」「素晴らしい国」という要素だが、なぜ「犠牲者(被害者)」であることがナショナリズムとなり得るのか。ここには、「世界的な人権意識の向上と、犠牲者意識のグローバル化」が関係していると林教授は言う。
アメリカのパリセイズパークに慰安婦碑が建てられたのは2010年のことで、当時かなりの騒ぎになった。歴史問題ではなく、「女性の人権問題」としてとらえる目もあった。
その後、アメリカでの慰安婦碑や慰安婦像の建立が相次いだが、その中には「アルメニア人虐殺」やホロコースト被害に遭った「ユダヤ人虐殺」の歴史と慰安婦の女性たちの運命を共鳴させようという運動もあった。
林教授は本書で、この「人権意識の向上と被害者意識のグローバル化」が、韓国内での慰安婦や徴用工の歴史をことさらに問題化し、異論を許さない状況を生み出したと説明する。
現代に起きた全く別の性暴力の事件が、過去の記憶を呼び覚まし、過去にさかのぼっての断罪を行わせやすくする。さらにホロコーストやポーランドの被害と重ねることで、犠牲者意識を国外に宣伝するようになった(ただしユダヤ人の中には「ホロコーストは唯一のものである」とし、慰安婦問題などと同列に扱われることを拒絶する向きもある)。
これは「戦争直後は問題にならなかった歴史(認識)が、なぜ1990年代以降、問題視されるようになったのか」の一つの説明になるだろう。
右派の読者に見つかって心配?
林教授は2000年、「朝鮮半島の民族主義の権力的言説」に関する記事が日本語で雑誌に載ることとなった際に、「『右傾化』する日本の政治的渦巻きに巻き込まれることで批判の論旨が見失われ、私の意図とは違う用いられ方をするのではないかという憂慮」を抱いたという。
本書も「右派」の筆者(梶原)に見つかってしまって、林教授はいよいよ憂慮されるかもしれない。
本書の内容は保守派とすれば耳の痛い、反論したくなる場面もあろうが、筆者としては右派と左派、あるいは日本と韓国の歴史を巡る応酬が、悪循環に陥っているという林教授の指摘に強く同意する。
特に、戦後日本の民族主義と朝鮮半島の民族主義には「敵対的共犯関係」があるとの指摘は重要だ。さらに、韓国の「犠牲者ナショナリズム」を手放しに肯定し、日本の民族主義を批判してきた「良心的日本人(つまり日本の左派)」たちの責任を問うとともに、〈日本の良心的知識人と、韓国の民族主義的な左派知識人が国民国家という認識論的な枠組みの下で結んだ知的同盟は、すでに歴史的な役割を終えた〉という一文を重く受け止めたい。
〈被害者ナショナリズムが危険なのは、加害者を被害者にするだけでなく、被害者のうちにある潜在的な加害者性を批判的に自覚する道を閉ざしてしまうからだ〉
本書をきっかけに、国内の右派・左派の論争における「共犯関係」も見つめなおしたい。
ライター・編集者。1980年埼玉県生まれ。月刊『WiLL』、月刊『Hanada』編集部を経てフリー。雑誌、ウェブでインタビュー記事などの取材・執筆のほか、書籍の編集・構成などを手掛ける。