被害者と加害者の位相
2022年7月8日に起きた事件について、「安倍晋三元首相は命を奪われた被害者であり、銃撃を加えた山上徹也は加害者である」。このことは誰がどう見ても、動かしようのない事実である。
だがここに、山上の動機である「統一教会」というファクターがもちこまれたことで、「山上はある意味被害者である」という認識も生まれてきた。もちろんそれは「ある面では」そうなのだが、さまざまな思惑から、安倍元首相が見舞われた被害よりも山上が見舞われた被害と、それに対する安倍元首相の責任を過剰に見積もるかのような人たちも散見される。
例えば東京大学大学院の林香里教授は、事件について安倍元首相への同情は記さないまま、山上には〈容疑者を犯行に向かわせた背景に胸を突かれる〉と書く。(https://digital.asahi.com/articles/DA3S15370539.html)
あるいは、安倍元首相が被害者になったことで「その存在が神格化され、政権に対する批判が封じられる」ことを危惧する声もある。「安倍応援団の存在と国葬のせいで、その当然の批判がやりづらくなる」という朝日新聞・高橋純子論説委員は典型例だ(『世界』2022年9月号)。
当然のことながら、事件の被害者であることと、政権の評価は無関係だ。なのになぜ、主に左派の人々がこうした考えにとらわれるかと言えば、「本来、被害者は絶対的に擁護されるべき存在である」という思い込みがあるからではないか。
そして、「安倍は腐敗した権力で政治をめちゃくちゃにした絶対的加害者であり、非難の対象であるべきだ」という認識が、事件によって覆されたことに慌てているように思える。
統一教会の問題や政治とのかかわりにおける責任、安倍政権の問題は追及すべきだが、いくら追及しても「事件における安倍元首相の被害者性」とは無関係だ。
しかし反安倍的な人々は、「安倍元首相」という被害者に対し、「山上も被害者だ」「統一教会の被害者を無視して、自民党は教会と癒着した」とことさらに述べ、一人二人の「被害」では「殺害」という安倍元首相の被害に見合わないため、次々に被害者を探し出し、政治と癒着したと言って実態以上の巨悪に仕立てようとしているように見えてしまうのだ。
アメリカから韓国に飛び火したある事件
目の前で起きた、決定的に被害者と加害者が明白な殺害事件でもこうした事態に至るのだから、国同士が複雑な経緯で戦争や支配・被支配の関係に至り、結果、加害者・被害者を生む戦争の話になれば、相互理解が難しくなるのはなおのことだ。
韓国の歴史学者である林志弦・西江大教授が書いた『犠牲者意識ナショナリズム』(東洋経済新報社)は、近年の韓国が歴史を舞台に「犠牲者である韓国国民」というナショナリズムを生み出してきた、と指摘する。
そして、「犠牲者(とその末裔)であること」を全面に押し出し、「犠牲者意識を何代にもわたって世襲」しながら民族主義を滾らせていく「犠牲者意識ナショナリズム」を憂慮する。
林教授が「被害者意識ナショナリズム」という概念を強く意識したのは、日系米国人であるヨーコ・カワシマ・ワトキンスの『ヨーコ物語』(邦題は『竹林はるか遠く』、ハート出版)を2007年に韓国の主要紙が一斉に批判したことだという。
『ヨーコ物語』は終戦時に朝鮮半島から日本へ、一家で避難する際に見舞われた略奪や、目撃した強姦などを、子供の目線で綴ったものだった。過酷ではあるが、当時としてはあくまでよくある体験談の一つで、2005年の韓国版刊行後直後は、とりわけ問題にもならなかった。
ところが2006年に本書がボストンとニューヨークの小学校の「推薦図書」に入ったことを、韓国系米国人が問題視。教育委員会を巻き込む歴史認識問題の一大騒動に発展し、2007年には韓国本国にも飛び火。
本国より激しい移民先で生まれるナショナリズム、いわゆる「遠距離ナショナリズム」の逆輸入によって、この時には「ヨーコは加害側の日本人のくせに、犠牲者のアンネ・フランクに偽装した」などと非難され、さらに燃え上がったのだ。