海原はトイレに行くふりをして自室に戻り、よく整理されたファイルから(会議に臨席している対立相手の)攻撃材料を仕入れてきて、反撃してくることがあったという。
(マルカッコ内は筆者補足)
一方、いかにも官僚フェイスなのが「KB個人論文」で知られる防衛省きっての理論派、久保卓也だ。
基盤的防衛力構想を練り上げた功労者だが、中学時代は「覚えた単語の辞書の頁を食べてしまった」と揶揄されるほど勉強熱心。一方で大人になってからは酒乱だったといい、誰しも一面的には語り得ない人間味があることを教えてくれる。
無味乾燥に思える防衛省という一行政機関だが、国際情勢や世論の動きの影響を受けるのはもちろん、実際には意外なほどに「その時、そのポジションにいた人物の考えや決断」の影響を色濃く受けていることがわかる。
「田母神事件」は何を投げかけているか
著者の辻田氏は自らの価値判断をほんの少し、盛り込みながらも、各人に対する断定的評価をなるべく避け、そこから抽出される問題点を指摘するにとどまっている。「議論のためにまず共有されるべき土台」を本書によって提供することを強く意識しているからだろう。結論ありきが多い防衛省・自衛隊をめぐる論調において、こうしたスタンスは貴重だ。
そうした辻田氏の試みに、この書評の最後の部分で応えてみたい。
現在に通じる問題として取り上げたいのは、ともに制服組で「問題発言」により要職を解かれるに至った栗栖弘臣と田母神俊雄だ。
栗栖の場合は「いざというとき動けない自衛隊」の法体系の問題。そして田母神の場合は「自衛官の歴史観・思想問題」。発言の性質は違うが、いずれも「自衛隊と国民、そして政治が向き合うべき、今なお残されている解決すべき課題」を突きつけている。
中でも後者については田母神(と最終章の河野)に関する記述の末尾に、戦前戦中の歴史に関する作品を手掛けてきた筆者らしく「歴史観」に関する問題意識が垣間見える。田母神の「歴史論文」の程度はお粗末なものである、との秦郁彦氏の言を引いてもいる。
それが大きな課題であることは承知の上で、あえて田母神事件とそれに付随する問題が投げかけた「歴史的事実の真偽」を超えた論点を指摘したい。
それは、「なぜどの国にも相応の正義があり、他国に移住することも難しくないこの時代に、あえて『日本』のために命を懸けるのか」を考えざるを得ない、自衛官側の精神や自衛隊そのものの存在意義にさえに及ぶものだ。