青木氏は、しばしば誤った原理を使って、前提から結論を導きます。
〈安倍晋三氏〉
恐ろしくつまらない男だった。少なくとも、ノンフィクションライターの琴線をくすぐるようなエピソードはほとんど持ち合わせていない男だった。あえて評するなら、ごくごく育ちのいいおぼっちゃまにすぎなかった。
言葉を変えるなら、内側から溢れ出るような志を抱いて政治を目指した男ではまったくない。基礎的な教養の面でも、政治思想の面でも、政治的な幅の広さや眼力の面でも、実際は相当な劣化コピーと評するほかはない(現代ビジネス、17年1月20日)。
[注釈]これは、自著『安倍三代』の出版に関連して、安倍晋三氏について語った青木氏の説明です。個人の尊厳を傷つけるような評価型言葉による【悪口 name calling】の羅列ですが、このうち大きな問題は「劣化コピー」という言葉です。
これは、出自に基づいて人を評価する【状況対人論証 ad hominem circumstantial】によるヘイト表現に他なりません。
実際に同書には、「晋三がいくら岸信介を敬愛し、それを手本にしていたとしても、素直に言って、実態は相当に質の低いカーボンコピーである」とも書かれています。
首相は国民全体に奉仕する公務員であり、国民は罷免する権利を持ちますが、その人権を侵すヘイト表現は許容されるものではありません。
〈籠池夫妻逮捕〉
籠池氏は、もともとは安倍政権の熱烈な応援団で、安倍氏の側も奥さんの昭恵氏が非常に密接に付き合っていた。日本の右派というか、ある種のこんな人たちなのかということが見えたということで、いまの社会状況を象徴している事件だ(Mショー、17年8月1日)。
[注釈]少数の人物が共通の属性を持っていることを根拠にして、その属性を持つ大きな集団を一般化するのは【軽率な概括 hasty generalization】に他なりません。差別主義者がしばしば使う誤謬です。
軽率で差別的な排他主義者
〈『新潮45』LGBT問題〉
「右寄り」とは、要するに排外主義だ。弱者だったり隣国だったりとか異民族だったりとかを、「日本は凄い」と「こいつらはダメだ」と叩くことで、ある種、自分たちに不安がある人たちを喜ばせるようなネトウヨとかと近いが、排外主義的な路線、それが一定程度の読者がいるというところにターゲットを絞っている出版・雑誌というのが増えている(Mショー、18年9月25日)。
[注釈]極めて少数の排外主義者を根拠にして、「右寄りは排外主義」と一般化するのも軽率な概括であり、それによって差別的なレッテルを貼るのは状況対人論証に他なりません。このような主張をする青木氏のほうが、よっぽど【排他主義者 exclusionist】です。
〈天皇誕生日会見〉
天皇の言動が政治性を帯びてはいけないし、帯びさせてはいけない。しかし、災害・沖縄・反戦・非戦・外国人労働者について触れている。ある種、政治的だ。
しかし、ごく当たり前のことだ。政治性を持ってはいけないが、戦争を知っている世代のある種の代表として言い続けたことを、政治性を帯びさせないでどう耳を傾けるかが重要だ。
一方、排外主義とか、ある種の歴史修正主義とかが横行していて、どうも日本の場合は政権にもその傾向が強いなかで、逆に天皇がごく常識的なメッセージの発信者となっている。いまの日本社会の病が逆に映し出されている(サンモニ、18年12月23日)。
[注釈]青木氏は政権批判のために、政治利用してはいけないと自らが主張する天皇の言動を政治利用して【権威論証 appeal to authority】を展開しています。
言っていることとやっていることが違うことは世間一般によくあることですが、青木氏のように言っていることと言っていることが違うことはそう簡単にはありません(笑)。
〈吉本新喜劇〉
安倍首相が吉本新喜劇に出た。そもそも、「庶民が権力者を茶化して皮肉って笑う」のが本来のお笑いだ。そこに首相を呼ぶのはどうなのか(サンモニ、19年4月28日)。
[注釈]これは、論者が個人的確信で本物を定義する【本物のスコットランド人はそうはしない no true Scotsman】と呼ばれる誤謬です。青木氏はテレビを使って、お笑いの表現の自由に圧力を加えています。