先に、日本では「政教分離」に関し、極めて杓子定規な解釈がまかり通っていると述べたが、以下では現状をより具体的に見てみたい。
政教分離については憲法第20条、第89条が規定しているところであるが、両条文は多分に曖昧な内容(=はっきり言わせてもらえば、相当な悪文。さらに、米国人が起案した原案からの翻訳が正確でなかったことが問題をより深刻にしている)であり、わが国の憲法の条文と呼ぶにふさわしいものではないことから、改正が必須と考える。
本稿では、法律論にはなるべく立ち入らず、主として欧米を念頭に入れつつ、国際スタンダード(といっても、筆者の認識がベースとなるが)に照らし、なし得ること、なすべきこと、なすべきでないことは何かを考えてみたい。
①国・政府と葬儀―――実情は中国並み
先に、西欧の事例を紹介する際に述べたが、国葬であれ、政府葬であれ、自治体葬であれ、故人の信仰に則る形で宗教を絡めることは、国際スタンダードに照らし全く問題ない。さらに、(出来が悪いとくさしたが)憲法との関連でも、問題はないと考えられる。
ところが、わが国の現状はといえば、「公的な葬儀から宗教を締め出す」というとんでもない悪弊がまかり通っている。「宗教抜き」が当たり前になっているのだ。安倍総理の国葬がいい例である。
しかも、かかる悪弊をおかしいと感じている人が、関係官僚はもとより、保守系政治家にすらほとんどいない(左派系政治家が異を唱えないことはいうまでもないが)現状には、ただただ慄然・唖然とさせられる。
ことは、死者をどう遇するかという霊的な次元をはらむ問題でもある。が、現状はといえば、日本は中国並みの無神論国家的行動をとっている。特に、保守系政治家には覚醒してもらいたいものだ。
②天皇即位と宗教―――神事は「私的な行事」?
天皇の即位の儀は、宗教的部分と世俗的部分のふたつに分けて、別々に執り行っている。それは、神事を含む天皇の地位継承(の行事)は天皇家の「私的なもの」であるので、各種賓客を招請する公的行事とは区分するべきとの論理に立つものと考えられる。が、このたてつけには違和感を持つ。
英国王の場合もそうだが、神事抜きに(天皇が)即位するということはあり得ない。神事にはある種の公的性格がある。これを100%、「私的な行事」であると断じることには無理がある。
私は、現行憲法の象徴天皇という理念・制度は、そのような伝統・歴史・宗教的背景などを丸ごと取り込んでいるものであると見る。よって、理念的、理論的には、即位の儀に神事が入ることは問題はなく(二つに区分して別々に行う必要はなく)、「ワン・ピース」のものとして執り行うことは可能かつ妥当と考える(宮内庁が伝統維持を掲げて、かかる私の議論に乗ってこないかもしれないが)。
では、「ワン・ピース」で行うことで、「国はいかなる宗教活動もしてはならない」とする憲法20条第3項に反することにならないか? 「それはない」といって良かろう。行事の趣旨はあくまで即位そのものにあるわけであり、宗教的活動に主眼があるとはいい難いからだ。
とにもかくにも、関係者(役人はもとより、保守系政治家ですら)は、宗教をタブー視し、宗教を絡めたくないという意識が強すぎる。思考停止状態に陥っている。西欧の国々同様、もう少しおおらかに思考することが肝要だ。
③宗教教育の強化、宗教系大学への補助など
国際的に宗教の復権が広く進む今日、日本の教育で特に足りないものの一つは、宗教そのもの(その本質、実情、歴史、問題点など)を教育することであると考えられるが、悪文だと評した憲法第二十条を字義どおり解すれば、国が「宗教教育」をすることはいけないことになる。
また、第89条に字義通りに解せば、いわゆるミッションスクールへの補助もダメということになる。実際には、ミッションスクールへの補助は、それを可能とする解釈を定着させることで何とかやりくりしているが、憲法改定の際には、この出来の悪い条項には真っ先に手を付けてもらいたい。
④宗教施設、同行事の公的補助―――宗教に対する「差別」
2021年2月、最高裁は那覇市が市内の社団法人に孔子廟が立つ市有地を無償で使用させていたことは、憲法第20条3項に違反する旨の判断を下した。
この廟は江戸時代に建てられ、明治期には国有化された時期があったが、1944年の空襲で焼失した。現存していれば史跡となったはずといわれている。
本土復帰後、渡来人の末裔が再建、今日に至っている。廟は、渡来人の子孫が毎年孔子の霊を迎える祭礼施設となっているが、同時に、歴史的文化施設として、観光・研究の対象ともなっている。
最高裁は、儒教が宗教かどうかに関しては判断を控えつつも、廟で実際に行われていた行事(孔子祭)の外観が宗教性を帯びているとして、市が特定宗教に特別の便益を提供していると認められることから、違憲と判断した。
ちなみに、国の史跡に指定されている湯島聖堂(東京)、足利学校(栃木)などでも孔子祭や論語講座が営まれているが、宗教性は薄いということで問題化していない。
以上を踏まえ、問いたい。
国が、あるいは県・市が、歴史的・文化的に高い価値がある機構・施設・行事に対し、必要に応じ支援を行うことは何らおかしなことではないはずだ。ところが、その受け皿が宗教色を帯びると、途端に「支援は駄目だ」となるのは、どこかおかしい。そう考えるのが常識的であろう。ところが、法曹界や霞が関の官僚のなかには、そうした常識が通じない人がいる。
繰り返すが、施設(ハード)であれ、祭りなどの行事(ソフト)であれ、文化面、歴史面、あるいは学術面で掛けがえないものが全国には多数ある。宗教絡みでなければ行政の関与(支援など)が可能であるのに、宗教性を帯びると途端に可能でなくなるというのは宗教に対する「差別」であり、大きな矛盾だ。
歴史的、文化的にとりわけ重要なものについては、支援対象に含めたらよい。憲法の解釈を少しばかり柔軟にすれば良いだけのことだ。宗教性があるというだけの理由でスパッと切り捨ててしまう現行の解釈・慣行は、あまりにもメカニカル(機械的)で雑と言わざるを得ない。
⑤神社仏閣の被災
前述④とも関連するが、神社仏閣の被災に関連してのかねてより知遇を頂いている自民党の務台俊介衆議院議員(長野二区、当時)の問題提起を紹介する。
曰く、令和元年の台風19号で多数の神社仏閣が被災した。氏子の多くが被災した神社では、氏子だけでの再建は難しいということで経産省のグループ補助制度の活用を求めたが、政教分離だから駄目だと断られた。そこで、政教分離規定は特定宗教の支援を禁止しているに過ぎない。なぜ被災神社仏閣を、被災した農家、商店、病院などと平等に扱えないかと問うたが、担当課は口ごもるばかりであった、と。
ここでも、政府関係者は極めて杓子定規な立てつけを用いて宗教に冷淡な態度を示す。このような事例については、現行憲法下でも十分対応できるはず(すなわち憲法は、各種被災者を助けるに際し、宗教施設を除外することまでは求めていない)であるし、そうするべきだ。
寺院仏閣などにある国宝や重要文化財が毀損された場合、国・自治体が支援するかどうか気になるところだが、宗教団体が自分でやれということが原則になっており(例外はあるようだが)、ここでも宗教(施設)の取り扱いは冷淡である。
ちなみに、2019年に火災に見舞われたパリのノートルダム寺院であるが、基本的にはその修復は国が負担したと理解している。宗教に冷淡なことで定評のあるあのフランスがそこまでやるかと驚かれる向きがあるかもしれないが、フランスではカトリック教会の寺院は基本的には国有財産となっている。その修復を国が手がけることは、何ら不思議なことではない。同寺院は歴史的・文化的遺産ということで、フランス政府も積極的に対応したのであろう。
宗教封じ込め度(政教分離度)をチャート化・可視化する
前項、前々項では、西洋諸国並びに日本が、政教分離に何処までこだわっているか、換言すれば、宗教をどの程度「封じ込めて」いるかにつき、概述した。ただ、読者の中には、私の説明をどこか実感できない方もおられるであろう。そこで、これまで述べてきた諸点をイメージとしてお示しするべく、可視化・チャート化してみた。
このチャートが示すところは、国際的に見ると、日本はかなり「左」に位置していると言う点だ(宗教にきつく当たることで定評あるフランスと同じくらいに!!)。日本国内では自覚がないようだが。わたし的には、せめて、中間派(D米国、F独・伊など)のあたりまでシフトするのが望ましい。
