敗北感と願望につけ込む陰謀論
本書の副題は〈民主主義をむしばむ認知戦の脅威〉。ネット上を飛び交う不確かな情報や虚偽の言説、過剰に敵味方を峻別するような書き込みの中でも、政治的な意図を持った外国勢力から持ち込まれるものによって、今や民主主義自体が脅かされている。そうした現状をつぶさに分析しているのが本書である。
現在、情報処理推進機構サイバー情勢研究室で研究員を務めている長迫氏は、2020年、2024年それぞれの米大統領選挙を事例に、どのような陰謀論が流布され、現実に影響を及ぼしたかを分析する。
陰謀論を信奉する側と言えば、アメリカではトランプ支持者の右派が大半というイメージだが、本書では2024年の大統領選挙後には反トランプ陣営の左派にも陰謀論が生じた実態を指摘している。
その内容と言えば「イーロン・マスクがスターリンクシステムを使って票数を操作したからトランプが勝った」「選挙が盗まれた」とするもので、2020年のトランプ敗北時に右派側で起きたことが、トランプの勝利で左派側も生じたことになる。
もちろんその規模や深刻さには差があろう。また、トランプのように負けたカマラ陣営が不正選挙を自ら煽ったり、それによって支援者が米議会に突入することもなかった。
だがそれでもアメリカの研究者らはこれを「ディスインフォメーションのバトン」、つまり社会に害をなすために意図的に与えられた情報(=ディスインフォメーション)の担い手が右派から左派にバトンタッチしたとみているという。
まさに陰謀論に左右なし。特定の条件や敗北感といった心理につけ込まれると、根拠薄弱な説や意見を進んで受け入れてしまうのだ。もっと言えば「不正選挙であってほしい」「票を操作された結果であってほしい」という現実否認のための願望に縋り付いてしまうということでもあろう。
狙いは「相互不信の醸成」
こうした心理につけ込む側は、どのような情報が「響くか」をよくよく研究しているようだ。そしてつけ込む側は時として外国勢力であり、中国やロシアはその手腕にたけている。
特にロシアの工作は、主に欧米で大きな成果をあげている。突く側はどちらでも構わない。一般的にプロパガンダと聞いて思い浮かべるものとは違い、単純に「親ロ派を増やすための情報工作」にとどまらない。
ある社会の中で意見が割れているテーマを見つけ出し、双方を煽って分断を深める。互いの陣営が相手に対する信頼を失い、相互不信を生み、疑心暗鬼になって社会が混乱することを企図しているのだ。
中露の情報工作や認知戦の形態に関しては、インテリジェンス研究と言えばこの人と言っていい、日本大学危機管理学部教授の小谷賢氏が詳しく解説している。
中でも見逃せないのは、言論の自由がない中露はこうした認知戦において圧倒的に有利な立場にあるという指摘だ。欧米日ではロシア発・中国発の言説や、自国民を装ったアカウントによる偽情報の流布もやりたい放題である一方、中露では偽情報を流布すれば逮捕されかねない。
そもそも事実であっても体制批判の許されない環境である。まさに非対称戦としか言いようがない。
それでも言論や表現の自由のある国の方が、そうでない国よりも結果的には有利であるという状況を作り出すためには、社会全体の信頼感を醸成し、議論ができる状況を作り出すことに加え、相手の手口を共有することによる抵抗力を養うことが重要になる。
仮に情報が入ってきて世論が攪乱されたとしても、そこから立ち直るための「抗堪力」を養っておく必要があるだろう。