【猫は友だち・番外編】「上高地を守るひとびと」 |瀬戸内みなみ(ライター)

【猫は友だち・番外編】「上高地を守るひとびと」 |瀬戸内みなみ(ライター)

美しい大自然に出合える上高地。しかし、その自然は、地元の人々の絶え間ざる努力によって保たれていた――。


いまの距離感は危険

サルの場合、この人馴れ(サルにとって安心と思える距離感が通常よりも近い状態)によって個体数が増えたと考えられているという。餌となる植物が豊富にある梓川河畔まで、ひとがいても平気で出ていけるようになり、栄養状態が良くなったのが理由の一つではないかということだ。30年ほど前の調査では1群・68頭だったものが、いまでは4群・200頭を超えるほどになっている。
 
これほど増えても、サルがひとを襲うことはない。私たちが食べものを持っている存在だと恐らく気づいているが、ひとに対して一定の畏怖がまだ残っているからだ。だからこんなに近くても、平和に「共存」ができているのだ。
 
そうはいっても、と松野さんがいう。

「やはりいまの距離感は危険です。なぜなら日本人でも外国人でも、ひとのほうから動物に近づいていこうとする状況があるんですよ。多くは写真を撮るためです。SNSに載せるんでしょう。当然ながら距離が近くなればなるほど、ケガや事故のリスクが高くなる。これまでのところ、上高地での人身被害は多くはありませんが、ゼロだったわけではありません」
 
数年前、サルをなでようとした女の子がお尻に噛みつかれて軽傷。
2020年、キャンプ場のテントにクマが侵入し、寝ていた女性が10針を縫うケガ。
そして昨年、遊歩道をひとりで歩いていた外国人観光客がクマと鉢合わせをして襲われ、負傷。

「どうしてそんなことが起こったのか。そうならないためには、どんな対策をすればいいのか。私たちは必要な対策を行うとともに、そのことを利用者のみなさんに周知、啓発しなければならない。これからも取組を徹底していきます。
 
上高地は日本の誇る景勝地です。その魅力を国内外に向けてじゅうぶんに発信し、世界から注目される山岳リゾートとするために、行政と地元事業者が協力して『上高地ビジョン』という計画を10年単位で策定し、取り組みを推進しているんですよ。
野生動物との関係も、その大きな課題のひとつです」

クマを見つけたら近づかない

一般向けの「クマ講習会」があるから聞きにいったらどうですか、と松野さんに教えられ、さっそく向かう。
 
上高地のヘソ・河童橋から、梓川上流へ向かって少し行くと小梨平にたどり着く。このあたりにはその名のとおり、小梨と呼ばれるズミの木がたくさんあって、若葉のなかに白い花をいっぱいに咲かせていた。すぐ右手に見える山小屋風の建物が、レクチャーホールのあるビジターセンターだ。上高地の自然に関する展示や四季折々の情報を提供している。
 
館内の壁や柱のあちらこちらに、カッコウ、ホトトギス、コマドリなど、上高地で見られるたくさんの野鳥が実物大模型になって留まっているのが楽しい。レクチャーホールにはツキノワグマの剥製。意外に小さいことにちょっと驚く。平均的な個体はオス・メスともに全長110~130cmほどなので、餌が少なくて痩せてしまう夏には、犬と見間違えられることもあるという。
 
クマ講習会こと「野生動物レクチャー 上高地のクマ」は毎日1回、土・祝日には2回開かれている。参加費無料、予約は不要。小梨平のキャンプ場でキャンプをするひとは必ず受講すること、とされている。
 
とにかくクマに人間の食べものを覚えさせてはならない。4年前のキャンプ場での事故は、たまたまその味を知ってしまったクマがテント内の食料を狙ったことで起きた。上高地では屋外にゴミ箱はなく、来訪者は自分のゴミはすべて持ち帰ることになっている。キャンプ場のゴミ置き場も事故後すぐ、お金をかけて頑丈に対策がなされた。
 
それから、もしクマを見かけても近づかないこと。これは比較的最近周知され始めた、新しいルールだ。もちろん昔からクマを見て写真を撮ろうとしたひとはいたかもしれないが、SNSの普及以来、それはどんどん後先を考えない行動へ変わっている。

だから時代に合わせたアップデートというものだろう。令和4年の法律では「野生動物に餌を与えることの禁止」と同時に、「野生動物への接近、またはつきまとうことの禁止」もはっきり規定された。動物へのストーカー行為とは……。これも現代の病理なのだろうか?
 
河童橋たもとのカフェでホットコーヒーを買い、梓川沿いのベンチに腰をかけてひと息つく。屋外に掛けられた温度計は摂氏14℃を指していた。もうすぐ6月とはいえ、まだまだ温かい飲みものが嬉しい。橋の上もその両岸も、ひとでいっぱいだ。でもそのざわめきは高い空に吸い取られていく。ウグイスが声を張り上げて囀っている。
 
雪の残る穂高の山に、数万年前の氷河に削られてできた岳沢が見える。活火山の焼岳からは絶えず白い水蒸気が上がっている。そのふもとへ向かって槍ヶ岳から豊かな、澄んだ水を運ぶ梓川。この川にひとの手で架けられたささやかな吊り橋が、山々に向かって精いっぱい対峙している。
 
この風景のなかに身をおいて、命の洗濯といわずになんといおう。ここにはひとの命よりもはるかに長い時間が流れている。

地道な努力でゴミが激減

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