「ハマスは悪!」だけでは済まない事情
無論、現在起きている問題に「どういうスタンスを取ることが、自分の政治信条と照らして正しいのか」「誰を批判すれば間違いないのか」をインスタントに教えてくれるような本ではない。
むしろ、読めば「やっかいな事情」を知ったからこそ軽々に「誰それの立場に立つ!」とは言えなくなってしまうだろう。
というのも「イスラエルVSパレスチナ」という構図だけでは見えなくなってしまう実態を、本書が丁寧に掬い取っているからだ。イスラエル国内にもアラブ人はいて選挙権を持ち、ユダヤ人であっても右派と左派がいる、ということさえ、二項対立の構造の中では忘れられがちだ。
そのスタンスの違いは、社会の断絶、絶対に相容れないとお互いに思っている日本の右派と左派の間にある溝よりももっと深い(かもしれない)。
例えば今回、大規模なイスラエル攻撃に及んだ武装組織・ハマスは確かにパレスチナを代表してはいないが、ガザ地区の支配権を握る過程では合法的選挙に勝っており、さらにさかのぼればイスラエルがハマスを支援していた過去もあるのだという。パレスチナ自治政府は腰が引けており、人質を取ったり民間人を殺傷する行為そのものは悪と断じるほかないが、「ハマスは悪!」と存在を非難するだけで済む問題ではない。
まるで賽の河原の石積み状態
歴史をたどれば2000年以上前の経緯から始めなければならないこの話において、「複雑で分からない、解決不能」と思ってしまえばそれまでである。だが、知ったうえでの「複雑」であれば、前者とは全く意味が異なる。
本書も戦後の経緯を丁寧に追いかけているが、読んでいるとまるで振り子が触れるように、明るい時代と暗い時代の間を行ったり来たりしてきたことが分かる。
その中で「もっとも明るかった時代」と言えるのが1993年のオスロ合意だろう。もちろん問題がすべて解決したわけではなく不満を持つ人もいただろうが、それでもイスラエルのラビン首相とパレスチナの代表・アラファト議長が揃ってノーベル平和賞を受賞したという事実は、現状とは隔世の感がある。
それぞれの立場をなぞりながら綴られる戦後のイスラエルとパレスチナを巡る経緯を知るにつけ、両者だけでなく中東やアメリカのスタンスも勘案しながら積み上げていかなければ前進しないものであることも分かる。凪の状態を作り出すべく細心の注意を払って組み上げても、たった一つの不注意や誰かの意図によって水泡に帰すのだ。
こうしたイスラエル―パレスチナ問題のありようは、ほとんど賽の河原の石積みのような話に感じられる。丁寧に、焦らずに……と何度石を詰み上げても、鬼がやってきて塔を崩してしまうのだ。
しかもその鬼はイスラエル・パレスチナの双方の社会から生み出されることもあり、鬼を支持する世論も一部にはある。鬼というと悪者のようだが、鬼には鬼なりの論理も理想もあるので「やっかい」なのだ(どのスタンスを「鬼」とするかという問題もある)。
賽の河原で石を積む子供を救うのは地蔵菩薩である。イスラエルとパレスチナに救いの手を伸べる地蔵菩薩が現在の国際社会に存在するのかと考えると暗い気持ちになるが、これもまた(鬼と裏表で)双方の社会から産み落とされるのを待つしかないのかもしれない。
それは本書でも30年前にラビンとアラファトが同時代に居合わせたことと、トランプ大統領とイスラエル右派のネタニヤフ首相が同時代に居合わせたことが本書で「鏡像」として語られていることからも連想される。