【読書亡羊】まるで「賽の河原の石積み」……イスラエル―パレスチナ問題を考える  ダニエル・ソカッチ『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』(NHK出版)

【読書亡羊】まるで「賽の河原の石積み」……イスラエル―パレスチナ問題を考える ダニエル・ソカッチ『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』(NHK出版)

その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする時事書評!


「ハマスは悪!」だけでは済まない事情

無論、現在起きている問題に「どういうスタンスを取ることが、自分の政治信条と照らして正しいのか」「誰を批判すれば間違いないのか」をインスタントに教えてくれるような本ではない。

むしろ、読めば「やっかいな事情」を知ったからこそ軽々に「誰それの立場に立つ!」とは言えなくなってしまうだろう。

というのも「イスラエルVSパレスチナ」という構図だけでは見えなくなってしまう実態を、本書が丁寧に掬い取っているからだ。イスラエル国内にもアラブ人はいて選挙権を持ち、ユダヤ人であっても右派と左派がいる、ということさえ、二項対立の構造の中では忘れられがちだ。

そのスタンスの違いは、社会の断絶、絶対に相容れないとお互いに思っている日本の右派と左派の間にある溝よりももっと深い(かもしれない)。

例えば今回、大規模なイスラエル攻撃に及んだ武装組織・ハマスは確かにパレスチナを代表してはいないが、ガザ地区の支配権を握る過程では合法的選挙に勝っており、さらにさかのぼればイスラエルがハマスを支援していた過去もあるのだという。パレスチナ自治政府は腰が引けており、人質を取ったり民間人を殺傷する行為そのものは悪と断じるほかないが、「ハマスは悪!」と存在を非難するだけで済む問題ではない。

Getty logo

まるで賽の河原の石積み状態

歴史をたどれば2000年以上前の経緯から始めなければならないこの話において、「複雑で分からない、解決不能」と思ってしまえばそれまでである。だが、知ったうえでの「複雑」であれば、前者とは全く意味が異なる。

本書も戦後の経緯を丁寧に追いかけているが、読んでいるとまるで振り子が触れるように、明るい時代と暗い時代の間を行ったり来たりしてきたことが分かる。

その中で「もっとも明るかった時代」と言えるのが1993年のオスロ合意だろう。もちろん問題がすべて解決したわけではなく不満を持つ人もいただろうが、それでもイスラエルのラビン首相とパレスチナの代表・アラファト議長が揃ってノーベル平和賞を受賞したという事実は、現状とは隔世の感がある。

それぞれの立場をなぞりながら綴られる戦後のイスラエルとパレスチナを巡る経緯を知るにつけ、両者だけでなく中東やアメリカのスタンスも勘案しながら積み上げていかなければ前進しないものであることも分かる。凪の状態を作り出すべく細心の注意を払って組み上げても、たった一つの不注意や誰かの意図によって水泡に帰すのだ。

こうしたイスラエル―パレスチナ問題のありようは、ほとんど賽の河原の石積みのような話に感じられる。丁寧に、焦らずに……と何度石を詰み上げても、鬼がやってきて塔を崩してしまうのだ。

しかもその鬼はイスラエル・パレスチナの双方の社会から生み出されることもあり、鬼を支持する世論も一部にはある。鬼というと悪者のようだが、鬼には鬼なりの論理も理想もあるので「やっかい」なのだ(どのスタンスを「鬼」とするかという問題もある)。

賽の河原で石を積む子供を救うのは地蔵菩薩である。イスラエルとパレスチナに救いの手を伸べる地蔵菩薩が現在の国際社会に存在するのかと考えると暗い気持ちになるが、これもまた(鬼と裏表で)双方の社会から産み落とされるのを待つしかないのかもしれない。

それは本書でも30年前にラビンとアラファトが同時代に居合わせたことと、トランプ大統領とイスラエル右派のネタニヤフ首相が同時代に居合わせたことが本書で「鏡像」として語られていることからも連想される。

関連する投稿


旧安倍派の元議員が語る、イランがホルムズ海峡を封鎖できない理由|小笠原理恵

旧安倍派の元議員が語る、イランがホルムズ海峡を封鎖できない理由|小笠原理恵

イランとイスラエルは停戦合意をしたが、ホルムズ海峡封鎖という「最悪のシナリオ」は今後も残り続けるのだろうか。元衆議院議員の長尾たかし氏は次のような見解を示している。「イランはホルムズ海峡の封鎖ができない」。なぜなのか。


【読書亡羊】「戦争が起きる二つのメカニズム」を知っていますか  千々和泰明『世界の力関係がわかる本』(ちくまプリマー新書)|梶原麻衣子

【読書亡羊】「戦争が起きる二つのメカニズム」を知っていますか 千々和泰明『世界の力関係がわかる本』(ちくまプリマー新書)|梶原麻衣子

その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする時事書評!


【読書亡羊】「台湾系移住民」が経験した古くて新しい問題  三尾裕子『心の中の台湾を手作りする』(慶応義塾大学三田哲学会叢書)|梶原麻衣子

【読書亡羊】「台湾系移住民」が経験した古くて新しい問題 三尾裕子『心の中の台湾を手作りする』(慶応義塾大学三田哲学会叢書)|梶原麻衣子

その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする時事書評!


【読書亡羊】米国防次官が「クマよりドラゴンを警戒せよ」という理由  村野将『米中戦争を阻止せよ』(PHP新書)|梶原麻衣子

【読書亡羊】米国防次官が「クマよりドラゴンを警戒せよ」という理由 村野将『米中戦争を阻止せよ』(PHP新書)|梶原麻衣子

その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする時事書評!


【読書亡羊】悪用厳禁の書! あなたの怒りは「本物」か  ジュリアーノ・ダ・エンポリ著、林昌弘訳『ポピュリズムの仕掛け人』(白水社)|梶原麻衣子

【読書亡羊】悪用厳禁の書! あなたの怒りは「本物」か ジュリアーノ・ダ・エンポリ著、林昌弘訳『ポピュリズムの仕掛け人』(白水社)|梶原麻衣子

その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする時事書評!


最新の投稿


「ニコニコ動画」無法地帯 誹謗中傷で大金稼ぎ 夏野剛ドワンゴ社長に問う|飯山陽【2025年8月号】

「ニコニコ動画」無法地帯 誹謗中傷で大金稼ぎ 夏野剛ドワンゴ社長に問う|飯山陽【2025年8月号】

月刊Hanada2025年8月号に掲載の『「ニコニコ動画」無法地帯 誹謗中傷で大金稼ぎ 夏野剛ドワンゴ社長に問う|飯山陽【2025年8月号】』の内容をAIを使って要約・紹介。


【今週のサンモニ】調子よすぎるダブルスタンダードの連発|藤原かずえ

【今週のサンモニ】調子よすぎるダブルスタンダードの連発|藤原かずえ

『Hanada』プラス連載「今週もおかしな報道ばかりをしている『サンデーモーニング』を藤原かずえさんがデータとロジックで滅多斬り」、略して【今週のサンモニ】。


【今週のサンモニ】給付と減税なら給付の方が断然マシ|藤原かずえ

【今週のサンモニ】給付と減税なら給付の方が断然マシ|藤原かずえ

『Hanada』プラス連載「今週もおかしな報道ばかりをしている『サンデーモーニング』を藤原かずえさんがデータとロジックで滅多斬り」、略して【今週のサンモニ】。


【今週のサンモニ】いつまでも進歩しない国家防衛思考|藤原かずえ

【今週のサンモニ】いつまでも進歩しない国家防衛思考|藤原かずえ

『Hanada』プラス連載「今週もおかしな報道ばかりをしている『サンデーモーニング』を藤原かずえさんがデータとロジックで滅多斬り」、略して【今週のサンモニ】。


教科書に載らない歴史|なべやかん

教科書に載らない歴史|なべやかん

大人気連載「なべやかん遺産」がシン・シリーズ突入! 芸能界屈指のコレクターであり、都市伝説、オカルト、スピリチュアルな話題が大好きな芸人・なべやかんが蒐集した選りすぐりの「怪」な話を紹介!