「あとがき」を読んで目が点に
目が点になった「あとがき」
そして、同書の「あとがき」を読んで、目が点になった。そこに川勝知事の本性を知る大きな手掛かりがあったからだ。関係する部分を紹介していく。
〈1994(平成6)年1月末、真冬の京都は東福寺、鎌倉時代以来の京都五山の1つ、名刹である。その静かな山門の専門道場に打座する若い雲水にまじり、還暦間近の新到の居士(こじ)がいた。前年の暮に世俗の職をなげうって出家した矢野暢(とおる)元京都大学教授である。厳冬のまっただ中で、暖房器具はなく、足袋もはかず、粗末な作務衣で身を包み、朝食は粥に梅干し、昼食・夕食は麦めし・味噌汁・漬物等の粗食の厳しい修業に耐えてすでに1月余、入門以来欠かさず、午前3時起床、本堂での朝課にはじまり、午後9時の消灯後の夜座という屋外坐禅をして就寝するまで日課がつまり、3年、いや20年ともいわれる先のみえない修業に打ちこんでいた。〉
矢野暢氏は元京都大学教授(政治学、東南アジア地域研究学)であり、1999年12月に63歳で亡くなっている。
ウイキペディアには、〈1993年に女性秘書から「暴力を用いた性的関係の強要があった」として、「キャンパス・セクハラ」の告発を受け、京大を辞職に追い込まれる。辞職後、京都市の東福寺に修行として身を隠す〉とある。被害に遭った女性秘書は1人ではなく、最終的にセクハラ、レイプを告発したのは4人だった。
川勝氏の文章は、矢野氏がちょうど身を隠した当時のことを記している。
ただ、食事内容や午前3時起床、午後9時の夜座など東福寺の修行の様子が書かれている。誰に取材したのか、すべて事実なのか疑問は残る。
矢野氏は1993年12月21日に東福寺に入った。
その4日後の25日には『京都新聞』に「諸縁放下」という題名のコラムを寄稿している。コラムで、俗世間との縁を切り、出家の身となったことを表明している。いくら何でも、1週間もたっていないのに、自ら、修行僧と名乗るにはちょっと早すぎるのではないか。
ところが、川勝知事は、見てきたように矢野氏の修行ぶりをたたえているのだ。
すぐにボロが出てしまう。矢野氏本人が1994年2月10日の『朝日新聞』に、京大辞職、出家とも京都大学前学長らによる「身を処すあやつり人形でしかなかった」行為を暴露したからだ。
つまり、自発的な意思で出家したのではなく、「セクハラ」騒動の中、前学長らの仲介で東福寺に仕方なく入ったと言うのだ。
事実関係を確認せず矢野氏を称える
また矢野氏のあまりに自由奔放なふるまいに、辞職等の経緯を最もよく知る元同僚の高谷好一教授が2月23日の『京都新聞』に「友人矢野君に訴える」という文章を寄稿している。
〈(「諸縁放下」のコラムだけでなく)私をもっとガッカリさせたのは、君がその後お寺から友人、知人たちに出した百数十通もの手紙だ。…君は沈黙を守り続けてきたかのごとくいうが、そうではない。人びとはそれを見て、出家の意味を疑った。〉
つまり、高谷教授は、川勝氏の思い描いた「世俗の職をなげうって出家した」のではなく、単なるポーズでしかなかったことを暴露したのだ。
川勝知事が「あとがき」を書いたのは〈1995(平成7)年麦秋〉とある。
1年も以上前に、矢野氏本人の「自発的な出家ではない」、高谷氏の「出家の意味を疑った」の文章が発表されていた。ところが、川勝知事の文章は、そんな事実関係を確認せずに、矢野氏の出家をたたえるのみである。矢野氏を一方的にたたえるのは、いわく言い難い関係にあったのかもしれない。
川勝知事の「あとがき」を続ける。
〈大寒となり、山門は大摂心という昼夜を問わず座禅修業に取り組む厳粛な行事に入った。女人禁制である。
ところが、それに頓着せず、山門の外から、矢野居士を出せと冬空に叫びたてた女性グループがいた。東福寺は、あろうことか、彼らを招じ入れた。1月26日のことだ。彼らは、皮製とみられるソファー、絨毯、エアコンを備えた、山門には場違いの立派な応接間で、録音テープレコーダーを膝におき、文章をつきつけた。夜叉の相貌を露にした彼らの荒い息づかいを伝える写真が写真誌『フォーカス』(1994年2月9日号)に載った。
応対しているのは東福寺管長の福島慶道。記事によれば、福島管長は女人の要求(私怨)に理解を示し、くだんの居士を寺から追放すると言明した。
そして、客とともに写真に収まった。その写真を載せた頁の隣に、別の写真が掲載されている。質素な作務衣の矢野居士である。寺内において何者かに盗み撮りされている。修業生活の一こまをとらえており、見た眼にも無防備だ。
いったいだれがその写真を撮ったのか。破門に値するのは隠し撮りに加担した寺内の輩であろう。これらの写真は発行部数85万部の週刊誌に載って世間にさらされた。片や東福寺派の大本山の頂点にありテレビ出演で京雀にもてはやされる管長、片や髭を生えるにまかせ厳しい修業生活で世俗心をすっかり洗い落としたかに見える新到の雲水。両者の、いったい、どちらが僧の本来の姿なのか。〉