核兵器リスクの認知は戦争抑止に効果的か
元村有希子氏:映画『ひろしま(1953)』を観た。エキストラとして広島市民8万8千人が参加してキノコ雲の下で何が起きているかリアルに再現している。(中略)
登場人物の青年が「自分は被爆者で、もしまた戦争が起きたりしたら自分は兵役に駆り出されて知らない外国の人と殺し合わなければいけない。そういうことがないために広島で起きたことを広島県、日本、そして世界の人に知って欲しいと言う。今まさに世界はそういう事態に直面している。
世界の人々が、広島における被爆の事実を通して核兵器のハザードを知ることは、核兵器のリスクの認知に貢献すると考えられます。
しかしながら、この啓蒙が戦争抑止に効果的かというと、一概にそうとは言えません。残念ながら、現在の社会において戦争を起こすのは、自由民主主義国家において文民統制を行う国民ではなく、「ならず者国家」において国民の政治的自由を制限するごく少数の専制支配者です。
畠山澄子氏:被爆者の人たちの証言を世界に伝えて世界中の人たちの戦争の体験を聞くことを、船旅を通して10年以上やってきたが、やっぱり戦争を体験した人が核も戦争もダメだと言い続けている。国際情勢が核なき世界からほど遠いからといってそのメッセージはブレないと皆さんおっしゃる。それはその通りだ。
これまでたくさんの証言の場に立ち会ってきたが、国と国のパワーバランスでしか核を語れないのは、私は違うと思う。人は人として人の痛みを感じることができるから、そういったところから社会は動くし、世界は変わる。その意味で、今日、やはり核兵器のない、戦争のない未来を私たちは目指せることを今一度強調したい。
被爆者の人たちの証言を世界に伝える活動は、核兵器のリスクの認知に貢献すると考えられます。たとえ、戦争を経験していてもしていなくても、国際情勢が核なき世界から遠くても近くても、核も戦争も暴力的行為であり、望ましいものではありません。
しかしながら、国と国のパワーバランスで核を語ることは、人々が生存する上で重要なことです。人として人の痛みを感じることができる人もいれば、「ならず者国家」の独裁専制者のように、人として人の痛みを感じることが自分の存在を否定することになる人もいます。
この専制支配者が力ずくの暴力で人々を支配する環境においては、社会は動くことなく、世界は変わりません。勿論、人々が核兵器のない、戦争のない未来を目指すことはできますが、その実現は簡単ではないのです。
先述したように、核廃絶が論理的に可能となるのは、「ならず者国家」の独裁支配者を確実に制裁可能なピンポイントの攻撃技術、あるいは「ならず者国家」の核攻撃を確実に無効化することが可能な防衛技術を、文民統制が完全に確立した民主主義国家が手に入れた時です。残念ながら、これらの技術を手に入れるには一定の時間が必要です。
また、それまでには、核より恐ろしい兵器が開発される可能性も想定されます。人々の感情に訴えるだけではセキュリティを確保することはできません。