「まあまあ、いいじゃないか」では済まない理由
「縄文人は植物を信仰し、その形を土偶にモチーフとして入れ込んだ」とするアイデアは面白い。「縄文エッセイ」であれば、想像力を掻き立て、縄文人に思いを馳せるきっかけにはなりえるだろう。
しかし問題は、学術的お墨付きまで得た竹倉説がむしろ「定説」となり、これまでの学術的積み重ねによって解き明かされてきた縄文人のあり方、土偶の意味合いが否定されかねないところにある。
竹倉説否定論に対しては、当初から「まあまあ、そんなに目くじら立てなくても」とか「夢があっていいじゃない」「縄文を知るきっかけになればいいのであって、学術的信憑性は誰も気にしてないんじゃないか」というような批判もあった。
そもそもすでに滅亡している縄文人が「植物をモチーフにしたのではありません」と否定することはないし、当然文献もない。しかし、「だからいいじゃないか」ということはならないだろう。
『土偶を読むを読む』を読めばわかるように、竹倉説の問題は〈自説に合うように考古学的事実を改変している〉(岩手県立博物館の金子明彦氏)ことにある。
そして、『土偶を読む』と『土偶を読むを読む』から読み取るべきは、学術批判、専門知軽視といった観点のみならず、いわば「物語の怖さ」だろう。
本書でも東京都立産業技術大学院大学の松井実助教が〈物語の語り手を絶対に信用するな。だが私たちは信用してしまう〉と題して、「面白さ、分かりやすさ」に惑わされずに検証する「学術の民」のあるべき姿を説く。
「物語(ナラティブ)の力」――これは昨今、問題となっている陰謀論やフェイクニュース、安全保障における「認知戦」の領域にまたがる現代的一大テーマでもある。
土偶・青森県亀ヶ岡遺跡出土(重要文化財・東京国立博物館所蔵)
事実と検証を積み重ねてこそ
土偶と言えばこれ、というほど有名な遮光器土偶を、「宇宙人がモチーフだ」と言えばオカルトで月刊『ムー』の世界だが、「里芋がモチーフだ」と言えば、学術的評価まで得た新たな発見になってしまう。
後者の提唱者である『土偶を読む』の筆者・竹倉氏からすればこの二つを一緒にされるのは心外だろう。
だが、後者について「客観的に検証できる裏付けがない」「むしろ、現在判明している縄文時代の植物分布や縄文人の食料事情からは否定される」以上、この二つを隔てる壁は極めて低い、ということになってしまう。
土偶に限らず、世の中には、客観的に検証しうる事実を積み上げて一つの論を導き出して提唱する人と、一つの説やストーリーを流布したいがために無数の事象から都合のいい点だけをつまみ、勝手に線をつないで「さあどうだ」と世に問おうとする人がいる。
もちろんどんな意見も表明する自由はあっていいが、それを「学術的である」とか「ジャーナリズムである」と言い出せば、話は変わってくる。
「面白さ、分かりやすさ、我が意を得たり、の『快感』が得られる物語」に惑わされずに、小さな事実を一つ一つ積み重ねながら実態を解き明かす作業。当然、しんどい作業だが、学術もジャーナリズムも、つまるところそうした地味な作業からしか、事実は浮かび上がってこないのだ。