ジャーナリズムは言論と意思表示の自由に依拠
伊藤詩織氏は、ジャーナリストを自称している。
ジャーナリズムとは、そもそも憲法21条に明記された「言論の自由」があって初めて自由闊達に機能する職業だ。しかし「言論の自由」は大日本帝国憲法でも29条に明記されていた。
29条は「日本国民は、法律の範囲内において、言論、著作、印行、集会及び結社の自由を有する」とした。戦前は「法律の範囲において」という但し書きを逆手にとった言論弾圧が横行した。
現行憲法の21条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」となっている。
ジャーナリズムとは、国民一人一人の意思表示の自由の上に成り立っている商売である。そしてその自由のレベルは、憲法と法律の解釈と運用によっていかようにも変更しうるものであることは、大日本帝国憲法下の日本を見れば明確である。
現行憲法下においても、裁判所の判決いかんで、言論の自由の範囲や程度は自在に変化する。
ジャーナリストを標榜するのであれば、言論や表現の自由を出来るだけ制限しない社会を目指すのが当然だ。
私はこれまで、伊藤詩織氏との訴訟に関連して数えきれない誹謗中傷を受けてきた。もちろん限度を超えた侮蔑については複数の訴訟を提起している。
しかし私を明らかに誹謗中傷するツイートやFacebook投稿に「いいね」を押した人に対して訴訟を起こそうなどとは考えたこともなかった。それは、ジャーナリズムという自身の職業の地盤を危うくする自殺行為だと感じていたからだ。
(写真撮影・編集部)
私への誹謗中傷ツイートへの「いいね」について
私は伊藤詩織氏との裁判を通じて、伊藤詩織氏の嘘や矛盾を証拠や証言を添えて数多く証明した。しかし裁判所は、「当時は混乱していた」などとして本質的な矛盾にも目を瞑り、伊藤詩織氏が創作した矛盾に満ちたストーリーを追認した。
人間が人間を裁く以上、裁判に完璧はない。声高に被害者であることを強調し、メディアや一定勢力に守られた人物の主張を根幹から否定するのは、裁判長にとっても容易なことではなかろう。
今回の高裁審理で伊藤詩織氏の被害者しぐさは、判決にどの位影響を与えたのだろうか。
これを確認する手がひとつある。私に対する過激で違法な名誉毀損ツイートに「いいね」を押した人物に対して、私が訴訟を起こしてみることである。
日本の裁判所が、先入観なく事実を見つめ、公平公正な判決を下すのであれば、私にも同じ判決が下るはずだ。私の周りには、「司法の健全性を確認するためにも、ぜひ同様の訴訟を起こして欲しい」と申し出る方もいる。
伊藤詩織氏のアクションと今回の石井浩裁判長の判決によって、日本はより息苦しい社会となってしまった。そのことに対する問題提起として自分で何をするべきか、皆さんのご意見を拝聴しながら、しばらく考えたいと思っている。