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なぜ体育会の「根性論」はなくならないのか 筑波大教授・山口香

月刊Hanada2018年8月号』より転載

■スポーツ界の「負の連鎖」

日本大学アメフト部の問題は、「反則タックル」が発生した試合中の映像もさることながら、会見を開いた際の内田正人前監督の姿勢も、世間を驚かせたのではないでしょうか。

タックルを行なってしまった選手が開いた会見では、「アメフトを嫌いになってしまった」などと述べる姿に同情が集まりましたが、内田前監督の会見に対しては、「監督は悪いと思っていないのではないか」と感じた方も多かったと思います。

ここに、スポーツ指導における根深い問題が隠されています。おそらく内田前監督はあの時点においても、「悪気はなかった」と思っていたのでしょう。悪気がないどころか、選手のためを思って一所懸命やったのに、どうしてここまで責められるのか、との思いさえあったのではないでしょうか。

スポーツ指導は、子育てに似ています。子供を虐待する親は、一部の極端な例を除けば、ほとんどは「子供のため、躾だと思ってやっている」と言う。同じように、時にパワハラや高圧的と取れるような指導も、その核にあるのは「選手にもっと成長してほしい。だからこそ厳しく指導するのだ」という思いです。

内田前監督も試合後、「選手が成長してくれればそれでいい」と述べています。タックルをしてしまった選手は優しい性格で、実力はあるのに相手に強く当たれなかったと報じられています。「その部分さえ改善できれば、もっといい選手になれるのに」という思いが、前監督や前コーチにはあったのでしょう。

一般には理解しがたくても、自身は「お前のためにやったんだ、おれが悪者になったって、お前が成長してくれればいいんだ」という思いにウソはない──。そして、子供も選手も、その思いから抜けられない。まさに虐待の構図と同じです。  子供に対する虐待とこのようなスポーツ指導が重なるのは、「負の連鎖が起きる」という点も同様です。

■「洗脳的指導」と「同調圧力」

選手を経て指導者になる場合、多くの人は選手時代にある種の「洗脳的指導」を受けています。古い世代になればなるほど「根性論」を強いられ、何としてでも勝ち上がっていく精神力が必要だと言われて育てられてきました。

五輪選手やプロを目指すほどの高いレベルでなくても、「怪我ぐらい、骨折ぐらいで弱音を吐くな」といったことを言われたことのあるスポーツ経験者は少なくないはずです。

これは、ある種の洗脳です。私も含め、選手として「勝つためには死ぬ気でやれ」という指導を受け、それを洗脳とも気づかず、疑問も持ちませんでした。

それも当然なのです。疑問を持ち、反するようなことを言えば選手として認めてもらえない。指導者に逆らえば試合にも出してもらえない。日大アメフト部の選手も、試合で使ってもらえない日々が続いたといいます。これは選手にとっては、存在意義を否定される「死」を意味しますから、「何としてでもやらなければならない」となる。

その圧力は監督やコーチなど上の立場の人間からだけではなく、同じ立場の選手からもかけられることがあります。組織の価値観を否定すれば、その場にいられなくなるという同調圧力も、スポーツの現場には存在するのです。

そして、その圧力に耐えられなくなったものはスポーツ界を去る。耐えたものだけが残る。これが「負の連鎖」ともいうべき悪循環を生んできたのです。

■成功体験が邪魔をする

今回は極端な事例であり、反則行為を行った際の動画が出回ったことから、日大アメフト部の指導は世間から非難されるに至りました。しかし、このことが世間に発覚せず、思い切ったプレーをしたことで選手が「一皮けて」いたとしたら。彼やチームにとって、支配的指導体制も「成功体験」になっていた可能性もあるのです。

さらに悪いことに、自分がこのような指導を受け、それなりの成功体験を持っていると、自分が指導者になった際に、選手に対して同じような指導を繰り返してしまう。「自分もそうやって育てられたから」です。

今回は社会問題化したことで、日大の他の選手たちも「さすがにこれはおかしい」と気づき、選手一同による声明文で「監督やコーチの指導に盲目的に従ってしまった」と述べていました。が、この件がなければ、おそらく彼らも多かれ少なかれ、同じような指導を後輩や自分の教え子たちに行った可能性も、簡単には否定できないでしょう。

自分たちが体験してきたこと、学んできたことを「あれは間違いだった」と認めるのは、スポーツに限らず誰しも難しいものです。それは「厳しい練習に耐えたからいまがある」 「体罰だって自分の糧になっている」という思考、すなわち自分の人生を否定することにもがるからです。

本当は、「たしかに自分たちはそれによって得たものもあったけれど、やっぱりあれは間違いだった」と認めることは、その人自身のアイデンティティを捨てることではありません。しかし、どうしても自分たちが経験してきたやり方を肯定してしまう。もっと言えば、それ以外の方法を知らない。これが、パワハラ的、支配的な指導の「負の連鎖」を生むのです。

■時代の流れに立ち遅れた「指導」が問題に

さらに根本的なことを言えば、内田前監督の世代はもちろん、私の世代でも、いまの若い選手たちとは価値観が違います。セクハラ事件等でも同じですが、昭和世代が自分たちの価値観を構築してきた時代には「パワハラ」も「セクハラ」も存在しなかった。当然、「指導」の範囲だったのです。

時代の経過とともに指導の在り方も変わり、科学的根拠のない押しつけや精神論、根性論でしかない強制は排除される方向に向かっていますが、指導者の側の意識が変化に追い付いていないのです。

しかし、多くの年配の指導者に意識の変化を求めるのはかなり難しいでしょう。私自身も、本音では自分の教え子に「勝つためにここへ来たんだろう。そのためだったらどんな努力だってするのは当たり前だ!」と言いたい気持ちはある。「試合を楽しみたい」といったようなぬるいものではなく、何としてでも勝つという勝利への執着や根性をいまの子たちにも持っていてほしい、そのためには少々の理不尽も我慢しろ、私だってそうしてきたんだ、とも思う。

しかし指導者としては、それが古い考え方であることを自覚しなければなりません。時代が変われば求められる人材、求められる資質や能力も変わります。時代が求める人材を育てるための指導をしていく必要があります。

■選手が一線を越えるとき

世界的に見ても、各競技の指導法は大きく変化しています。たとえば野球の投手に対して、昔は「とにかく黙って走り込め」という指導も認められていました。なぜ走り込みが必要なのかという理由や理屈よりも、「我慢して走り続けることが結果にがる」と言わんばかりでした。

ところがいまの子供たちは、そのような一方的な指導では納得しません。無理に走らせるよりも、「あなたが投げたいボール、スピードを生むには、投げる土台の足腰を鍛える必要がある。そのために、鍛練期であるこの時期には一日数キロ走ることが必要だ」と伝えたほうが効果的です。

昭和世代の人から見れば、何を甘やかしているんだと言われるかもしれません。しかし、このような目標と効果を示したうえでの練習が、以前の盲目的な練習より楽で苦しくないものかといえばそうではないのです。

いまの選手たちは、昔の選手たちよりもずっと厳しい練習をこなしています。頭も使っているし、何が効果的なのかをよく勉強してもいる。科学的な根拠や論理に基づき、練習だけでなく食事や睡眠といった生活スタイルまでを競技に捧げています。むしろそうでなければ、世界とわたり合っていけないからです。

もちろん、勝利への情熱はいつの時代でも、選手の心のなかにあるものです。柔道もそうですが、アメフトなども試合直前からアドレナリンを放出して、相手に全力で向かっていく精神力が必要です。

またどんな競技でも、スポーツはレベルが上がれば上がるほど、反則ギリギリのところを攻めながら勝利をもぎ取る技術と気持ちが必要なのもたしかです。

指導者側だけではありません。競技を見ている側も、特にプロスポーツやメダルのかかる五輪などの試合においては、「ギリギリを攻めろ」 「勝ちをもぎ取りに行け」と言いながら、一方でフェアプレーを望むという矛盾した気持ちを持っているはずです。

アドレナリン全開の選手が、時に一線を越えてしまう場合はあります。ネガティブな支配的圧力だけではなく、ポジティブで熱烈な応援や期待が、選手を「ルールの向こう側」に追いやることもある。このことは観客側も理解しておく必要があるでしょう。

■選手が背負わされる「学校ブランド」

今回の日大アメフト部の件で言えば、近年、大学の運動部・体育会は、大学全体のブランディングの主役になっていることが、指導者や選手へのプレッシャーになっている一面も否定できません。

野球やラグビーの早慶戦などは、OBや現役学生が観戦に訪れ、寄付もたくさん集まっている。愛校精神はもちろんですが、やはり応援され、支持されるには「強いチーム」であることも求められます。

五輪などを見ても分かるように、スポーツには人々の心を一つにする求心力がありますから、各大学がブランディングの一環として運動部・体育会に期待するのもよくわかります。

しかし一方で、「絶対に勝たねばならない」 「やらねばならない」 「大学の名前を背負っている」という引くに引けないプレッシャーを、指導者や選手たちに与えている可能性も考慮しなければなりません。このプレッシャーが、スポーツで守らねばならないルールという一線を越えてしまう誘因になっているかもしれないのです。

■指導者に必要な客観性  

2020年の東京五輪を目前にして、選手にかかるプレッシャーは、常人には理解しがたいものがあります。たとえば、昨年発覚したカヌー競技の事例では、五輪出場を争っていたライバル選手の飲み物に、ある選手が禁止薬物を混入してしまうという驚くべき事態が起きました。 「スポーツ精神にあるまじき行為」という批判は当然ですが、自分が五輪に出場できないことは、家族や所属先など、応援してくれる全ての人を失望させるという許されない事実なのです。

スポーツは、「結果が出なくても頑張ったから」といって評価される世界ではありません。五輪に出場した人ならわかりますが、メダルの有無で帰国する飛行機の席も、飛行機を降りていく順番も明確に分けられ、メダルを取れなかった現実を突きつけられるのです。

自分が必死に頑張っても、これ以上どうにもならない時、相手が怪我をしたり、調子を落としてくれたら……と期待するなというのは綺麗事にも思えます。たしかに不健全極まりない思考ではありますが、責任感のある人であればあるほど追い詰められ、冷静さを失ってしまう可能性はあります。

プレッシャーを与え、追い込むことが一つのカンフル剤にはなるのですが、使い方を間違えれば驚くような結果を招いてしまう。日大アメフト部の問題は、その難しさを突きつけたともいえるでしょう。

こういった状況下では、時に行き過ぎた指導が行われる状況が生まれやすくなります。しかし選手が情熱を燃やしていればなおのこと、指導者には冷静さが求められます。私はよく「冷静と情熱のあいだ」と言っているのですが、矛盾した二つの感情のなかでバランスを取ることが必要です。

■「強いものが偉い」世界

もちろん誰もが、指導者になってすぐそのような「悟りの境地」に立てるわけではありません。試行錯誤を繰り返しながら、選手と指導者のちょうどいい関係性を模索していく。その場合に、経験値のある指導者のアドバイスが必要になります。

年配の指導者は、そうでなくても埋められない世代間ギャップで軋轢を生んだり、選手と年齢が離れすぎて対等な関係を築けなくなってくるものです。ならば一線を退き、若いコーチと選手たちが猪突猛進しそうなところを少し客観的な立場から、冷静で有益なアドバイスを送れるようなポジションを取ったほうがいいのかもしれません。

指導の現場には多様性も必要でしょう。スポーツ界ではどうしても「強いものが偉い」。仮に少々理不尽であっても、結果を残す人の意見が通りやすいのはスポーツ界の常です。

しかし、そういうチームが新しい視点や論理を得れば、より飛躍する可能性が生まれます。支配的な組織では、どんなに伸びても指導者の思考範囲以上のレベルに達することはできない。選手も含め、より多くの頭脳が闊達に意見を出し合い、責任は監督が取るとしても、最後の選択肢は選手に委ねられているという組織のほうが、結果的には伸びしろが大きいのではないでしょうか。

スポーツ界の宿命として、どうしても、実績を残した人が指導者に抜擢されがちです。しかし、選手として実績を残した人が優れた指導者かといえば、必ずしもそうではありません。むしろ、深く考えなくてもできてしまう才能の持ち主は、頑張ってもできない人の気持ちは分からない。

私は筑波大学で教えていますが、トップレベルの選手ではないものの、指導という面で鋭い感性や視点を持っている学生もたくさんいます。こういう意見を吸い上げ、人材を発掘、育成できるシステムの構築は、スポーツに限らず日本の組織の至る所で今後、必要とされるのかもしれません。

新たな兆候も見えてきています。たとえば青山学院大学陸上部の原晋監督。原監督は実業団での陸上選手経験はあるものの、故障で選手生活を引退していますし、箱根駅伝の出場経験はありません。しかし、監督として箱根駅伝四連覇という結果を残しています。

しかもその指導法は、上から押し付ける支配的指導ではなく、選手の考える力を引き出すもの。連覇のプレッシャーのなかでも、選手を精神的に追い詰めていくような指導法を取ってはいません。

原監督はこう仰っています。

〈いまの子供は、働いても報われない組織なら最初から頑張りません。逆に大会のメンバーから漏れても、評価がフェアで理由が明確であれば納得してくれる〉

これは、現在のスポーツ指導に非常に重要な要素です。先ほども述べたように、いまの選手たちは自分が納得し、それをやることが自分の目標に近づくことにがると理解すれば、自分から動くのです。

■「ど根性」から「喜び」へ

体罰などでもそうですが、指導者側は「指導とパワハラの境目はどこにあるのか」をみ切れていません。日大の問題も、選手が反則にまで及んだためにその指導法に対する疑念の声が上がりましたが、一方で「たしかにそこまで追い詰めるのはどうかと思うが、しかしある程度のプレッシャーや強制も必要じゃないか」という考えもあるでしょう。

このような迷いのなかにいる指導者によく私が話すのは、「説明責任を果たせるかどうか」です。

以前は「文句を言わずに従え」 「口答えするな」式の指導が罷り通っていましたが、これからはそうではありません。選手を「洗脳」し、「支配」するのではなく、原監督の言葉にもあるように、説明で理解を促して、自発的な取り組みを引き出すやり方で結果を残し、その先にブランディングという成果もある方向に、世の中は変わり始めているのです。

分かりやすい例を挙げれば、「『巨人の星』から『キャプテン翼』へ」。「巨人の星」は日本人のもともとの精神に合ったアニメで、父親に殴られ、大リーグ養成ギプスを装着し、時には骨が折れても投げ続けるというど根性ものです。そこには「野球を楽しむ」という精神はなく、ひたすら耐えた先に勝利があるストーリーでした。

一方、「キャプテン翼」は、「ボールは友達」というフレーズに象徴されるように、仲間とのプレーを楽しみながら成長していく。そして練習も勝利も、すべては「自分の喜びである」との価値観が示されています。

耐えた先、山や壁を越えた先にある光明を見出すためにひたすら努力することも、たしかに人生の喜びではあります。率直に言えば、私もそのような価値観を持ってはいます。

しかし、初めから光を集めながら成長していくというモデルもあっていい。そのように考えられるようになれば、選手をとことん追いつめることが指導であるという悪しき慣習は薄れていくのではないでしょうか。

■スポーツ界は社会の縮図

多かれ少なかれ、「黙ってやれ」 「口答えするなんて百年早い」との価値観は、スポーツに限らず日本の組織のなかには残っていくでしょう。  根性論についても、戦後日本を牽引してきたのは「モーレツ社員」であり、実際に成果も残してきました。そのような成功体験を否定せよというのは、昭和世代の人たちには酷なことです。

彼らの経験はそれとして認めながら、しかし新しい価値観を持った若者の活躍を邪魔しないよう、認めていく。これこそがダイバーシティの考え方でもあります。自分とは違う多様な考えや価値観を受け入れて新たな才能を見守り、その能力を伸ばしていく姿勢の先にイノベーティブな未来社会が見えてきます。このことはスポーツ界に限らず、日本社会全体で必要なのではないでしょうか。

 

楽しむスポーツ、ずぼらなヨガもあっていい!

著者略歴

  1. 山口香

    筑波大学教授 1964年、東京都生まれ。84年、第3回世界選手権で日本人女性柔道家として史上初の金メダル。88年、ソウルオリンピックで銅メダル。「女姿三四郎」と称賛された。89年、筑波大学大学院体育学修士課程修了。同年現役を引退。段位は六段。筑波大学柔道部女子監督などを務め、08年、筑波大学大学院准教授。2011年、JOCの理事に選出。13年、全日本柔道連盟監事ならびに東京都教育委員会の教育委員に就任。2017年より現職。著書に『残念なメダリスト』(中公ラクレ)、『日本柔道の論点』(イースト新書)など。

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