こうしてみると中国の宗族は、実質上、一つの小さな「国家」なのである。近代以前の中国において、広大な農村地域で林立しているのは、まさに大小の宗族であって、幾千幾万の「ミニ国家」である宗族がこの国の形を作っていた。
問題は、なぜ人々が宗族という「ミニ国家」を作って生活しなければならないのかであるが、その答えは簡単だ。要するに、中国全体を統治する皇帝と朝廷は天下万民のために何もしてくれない、ということである。だからこそ、人々は宗族という血縁集団を作って、自分たちの手で秩序を保ち、一族の安全を守り、一族のなかの弱者を救済し、子供たちの教育を行ったりしたのである。
昔の中国人にとっては、朝廷も皇帝も国家も遠くにある意味のない存在であって、社会生活のすべてが宗族頼りだった。そこから生まれてくる中国人の社会意識は、すなわち「宗族中心主義」。「国家」の意識もなければ「公」の意識もなく、人々の忠誠心や愛着心や帰属意識は全部、自らの所属する宗族に注がれるのである。
そして、こうした「宗族中心主義」はいつの間にか「宗族のエゴ」となって異常に肥大化した。普通の中国人たちは自分たちの「宗族」を中心にして価値判断を行い、宗族のためには公の利益や国家の利益を損なっても構わないと考えるようになり、挙げ句の果てには、一族のために公の利益や国家の利益を損なうことは、むしろ宗族にとっての「善」であり、「美徳」であるという、一種の倒錯した価値観が中国社会で定着したのだ。
腐敗は悪事ではなく最高の善行であり美徳
そのなかでは、官僚の汚職・腐敗も一種の文化として定着した。中国社会で出世し権力を手に入れた官僚たちにも当然、自らの所属する宗族がある。したがって、彼らにとっては権力を利用して蓄財し自分たちの宗族を潤すのはむしろ当然の義務であって、進んで行うべき「善行」そのものなのである。こうして社会的悪であるはずの腐敗汚職は、宗族の人々にとって最高の「善」、大いに褒めるべき立派な行為となった。
現代中国の「全家腐」も、まさにこのような宗族中心の倒錯した道徳観念に由来する。現在の中国では都市化が進むなかで伝統の宗族社会が徐々に消えつつあるが、核心的価値観である「一族中心主義」は依然として根強く生き残っている。だから腐敗幹部一家からすれば、幹部本人の権力を利用して「全家腐」に走ることは悪事でもなんでもない。むしろそれはその一家にとっての最高の「善行」であって誇るべき行為なのだ。摘発さえされなければ「全家腐」の一体どこが悪いのか、と彼らは心底思っている。
もちろん、庶民たちは一概に、「全家腐」に対して大いなる不満や憤慨を持っている。しかしそれは単に、自分たちは腐敗したくてもできない時に限る。普通の庶民でも高尚な知識人でも、一旦何らかの権限を手に入れて腐敗できる立場になれば、一家総出で「全家腐」に飛びつく。家族のため一族のために社会や公や国家から何かを収奪することは、偉大なる中国人民にとっての最高の「美徳」だからである。
評論家。1962年、四川省生まれ。北京大学哲学部を卒業後、四川大学哲学部講師を経て、88年に来日。95年、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。2002年『なぜ中国人は日本人を憎むのか』(PHP研究所)刊行以来、日中・中国問題を中心とした評論活動に入る。07年に日本国籍を取得。08年拓殖大学客員教授に就任。14年『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』(PHP新書)で第23回山本七平賞を受賞。著書に『韓民族こそ歴史の加害者である』(飛鳥新社)など多数。