会談で動いた漁業権問題
2010年10月31日、台北の松山空港と東京の羽田空港の間に就航便が開通することになり、当時野党議員だった安倍さんが、第一便で台湾を訪れました。
その頃、私はかなり忙しくしていて、事務所は留守にしがちなうえ、携帯電話も持っていないので、外出してしまうと連絡が取れない状態だったのですが、たまたまその日は予定がなく、事務所にいたところ、なんと台北の安倍さんから電話がかかってきたのです。
「実はいま、台北に来ているので李登輝さんに会いたいのだけれど、伝手がない。何とかなりませんか」
私は「わかった、一時間後にもう一度電話して」と言って電話を切り、すぐに台湾独立建国連盟の主席である黄昭堂さんに電話を掛けました。彼なら李登輝さんに連絡がつくだろうと思ったのです。
彼は非常に遠慮がちな人で、「実は李登輝さんのホットラインの番号を本人からもらっているんだけれど、これまで一度も掛けたことがない」と言う。そして、この時もためらっている様子が見て取れたので私は彼を一喝し、「いま使わなくて、いつ使うの」と、李登輝さんにいますぐ電話するよう促したのです。
黄昭堂さんが慌てて李登輝さんに電話したところ、なんと李登輝さんも安倍さんが来台していると知って会いたがっていたのだという。しかし、「安倍晋三は日程が詰まっていてそれどころではない」として取り合ってもらえなかったというのです。
一方、安倍さんのほうも「李登輝さんは体調が悪いので、いまは人に会える状態ではない」と聞かされていたとか。双方に邪魔が入っていたということになります。
安倍さんはこの日、日本メディアを対象に開いた会見で、李登輝さんから「尖閣諸島の領有権は日本にある、と明言された」旨を明かしました。
ここからは憶測ですが、李登輝さんは「尖閣は日本領である」という主張と同時に、日台漁業協定についても述べたのではないか、と私は思っています。
というのも、安倍さんが再び総理の座に就いて間もない2013年4月、日台間で尖閣諸島周辺海域の漁業権をめぐる協定「日台民間漁業取決め」が調印されたのです。これが、2010年の李登輝・安倍晋三会談の成果であるならば、電話を取り次いだ私も、この件に”一役買った”と言えるかもしれません。
2010年10月31日、台北市内の李登輝元総督のご自宅前で。
我是不是我的我
李登輝さんは、国際社会から「ミスター・デモクラシー」 「民主先生」と呼ばれるほど、台湾に民主化を根付かせ、日本人の自尊心をも回復する影響力を持った紛れもない「偉人」です。
もともと彼には老獪さ、もっと言えば古狸のような部分があったのか、それとも誰もが認める優等生としての生真面目さによって、ポストに座るごとに自分の器も成長させてきたのか、わかりかねるところがありますが、おそらく両方を併せ持っていたのでしょう。
ではなぜ、1984年に経国は本省人である李登輝さんを副総統に任命したのか。一般的には「李登輝には野心がなかった」からだといわれていますが、実際のところはどうだったのでしょうか。
李登輝さんは「我是不是我的我」(私は、私でない私である)という言葉を座右の銘にしていました。私利私欲も、自分が偉くなりたいという権力欲もない。李登輝さんは敬虔なクリスチャンでしたから、そうした面からも禁欲的で、自らを律する意思をお持ちだったのでしょう。
もう一つ、理由を挙げるとすれば、李登輝さんの長男である李憲文が1982年に亡くなっていることも大きかったのかもしれません。
経国は、自身は介石の息子として中華民国総統の座を世襲していますが、自身の子供には世襲させないと明言していました。これは中国人には珍しい発想でしたから、経国が「世襲を考えない人物を使いたい。その点、李登輝は息子が死んでいるから、世襲はできないのでちょうどいい」と思ったことも、李登輝抜擢の一因だったのではないかと思います。
そして経国亡きあと、外省人からは「所詮、国民党や元老の操り人形だろう」と思われていた李登輝さんが見る見るうちに成長し、台湾の民主化を推し進めた。私は李登輝さんという存在が、四百年近くも他者の手によって統治されてきた台湾にとって「運命の女神が初めて微笑んだ」ことの象徴だと思っています。
そして、李登輝さんが評価し、育ててきた蔡英文も、李登輝さんと同様、学者だった経歴を持ち、与えられるステージのなかでどんどん成長しています。彼女も全く私利私欲はない。クリーンで、台湾のために身を粉にして働いています。
中国の圧力はいや増すばかりですが、その圧力が李登輝さんを育て、蔡英文を成長させたのもたしか。その蔡英文のゆるぎない成長を見届けた李登輝さんは、安心して眠りにつけたのではないかとさえ思うのです。