ピントのぼけた社説
2019年10月24日、私はツイッターで中日新聞と朝日新聞へ送付した「抗議申入れ」(中日)、「見解書」(朝日)を公開しました。
抗議したのは「表現の不自由展・その後」をめぐる問題で、私を名指しで攻撃した記事についてで、9月12日付で送付していたにもかかわらず、現時点(2019年11月15日)で2社から何の返答もないため、公開に踏み切りました。
抗議した当該記事を紹介しましょう。一つは中日の社説「社会の自由への脅迫だ」(8月7日)で、私をこう批判しています。
〈河村たかし名古屋市長は「日本国民の心を踏みにじる」として少女像などの撤去を要請。菅義偉官房長官も、国の補助金交付について慎重に検討する考えを示した。これは、日本ペンクラブが声明で「憲法が禁じる『検閲』にもつながる」と厳しく批判したように、明らかな政治による圧力だ〉
ピントがずれていると言わざるを得ません。私はなにも、展示物がけしからんから撤去しろと言っているわけではないのです。これは、月刊『Hanada』2019年12月号の門田隆将氏との対談(https://hanada-plus.jp/articles/378)
でも言ったことですが、名古屋市主催の公共事業だからまずいと言っているだけで、作家に「日本人を侮辱するような作品はつくるな」などとは一度も言っていません。
私は一応、名古屋市民の信託を得て市長をしています。市長の仕事は、市民の皆さんから預かった税金を適切に使うこと。そのために、税金を投入する際には最低限、公共性をチェックする必要があります。あいちトリエンナーレは名古屋市の主催。昭和天皇の肖像をバーナーで燃やし、足で踏みつける映像や少女像などの展示がある催しに税金を投入するのは、どう考えてもまずい。
だから、私はそれらの展示物については撤去すべきだと言ったわけで、もしこれを「検閲」というのならば、公共性をチェックする県や市の議員、職員、みな検閲官ということになってしまう。中日は県議会、市議会などを「検閲だ」といって否定するのでしょうか。
高橋純子の“薄っぺらい”文章
私からいわせれば、「検閲」しているのは中日をはじめとするマスコミのほうです。私は、抗議書を公開してから、記者会見で立て続けに中日、朝日の報道に抗議したことを話しているのですが、マスコミが「検閲」して、どこもそのことを報じてくれません。
朝日の記事は、高橋純子編集委員のコラム「多事奏論」の「表現の自由 『権力なんかないよ(笑)』に震える」(2019年8月21日)と題する文章です。
〈無自覚でカジュアルな権力行使は、自覚的なそれよりある意味おそろしい……はい。同様のことは、名古屋でも。
彼はきしめんのように薄い男だった──とはおそらく誰も書いてないが、名古屋市の河村たかし市長は、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」で展示されていた少女像の撤去を求め、「日本人の心を踏みにじる」 「表現の自由は相手を傷つけないことが絶対(条件)」などと語ったという。この認識がいかに浅薄かはさんざん指摘されているので繰り返さないけれど(後略)〉
正直、持って回ったような文章で、何が言いたいのかよくわからないコラムだったのですが、薄っぺらい男と中傷されて黙っているわけにはいきません。薄っぺらいのは高橋氏の文章のほうでしょう。
コラムのなかでは、私の認識が「いかに浅薄かはさんざん指摘されている」と書いていますが、はたしてそうでしょうか。私への批判はいろいろ読んでいますが、耳の痛かったものは一つもありません。
しかも高橋氏は、名古屋名物のきしめんをネガティブなものとして使っている。きしめんは薄いけれど噛めば味があり、名古屋市民のみならず、全国で親しまれている郷土料理。朝日に送付した「見解書」の末尾に、私はこう書きました。
〈なお、「きしめんのように薄い男」という表現は、名古屋の名物であるきしめんを宣伝していただき大変光栄であるが、きしめんは、薄いが幅があり、味も良いので、肯定的な表現として使っていただきたい〉