それでは副産物として、野党共闘が強化されたでしょうか。
立憲民主党と国民民主党が共同会派を結成しても、7月の参院選で敵対したしこりは残っており、参院では対立したままです。むしろ、対立は深まっているともいえます。
関電疑惑のヒアリングで言いたい放題だった菅氏は11月3日、自身のブログに「なぜ菅政権の時に原発ゼロを実現できなかったか」と題した文章を書き込みました。
このなかで、平成23年3月11日に起きた東京電力福島第一原発事故以降、首相として原発ゼロに舵を切ったことを強調しています。
そのうえで、同年6月2日に自民党などが菅内閣不信任決議案を国会に提出したことに触れ、「私と民主党内で対立していた小沢一郎議員が自民党の不信任案に同調しようとしました」と説明しています。
続けて「私はもちろん、総理を続けて原発ゼロを実現したいと考えていました」と当時の気持ちを吐露し、「私に対する批判が強まり、それに加えて党内で対立していた小沢さんの揺さぶりのために、政権が維持できなくなり、やむをえず退任したのです」と綴っています。
「恨み骨髄」とはこのことを言うのでしょう。
そんな菅氏が所属する立憲民主党と小沢一郎衆院議員が所属する国民民主党が共同会派を組み、小沢氏は立憲民主党を巻き込んで新党結成に発展させようと考え、立憲民主党の枝野幸男代表と10月30日夜に都内で会談し、緊密な連携を確認しているわけです。
「新党結成? ご冗談を」と突っ込みたくもなります。
ちなみに合同ヒアリングは、れいわ新選組にも声をかけていますが、山本氏は出席していません。まさか、国会議員ではないから出席してはいけないということはないでしょう。
山本氏は、立憲民主党が主導して行っている舞台装置に乗るメリットは何ひとつない、と感じているのだと思います。
この方式はそろそろ潮時でしょう。国会議員ならば、やはり議論は国会審議のなかで行うべきで、詳細を知りたければ個別に役人を呼んで説明を受けるという当たり前の姿に戻すべきです。
官僚と敵対しても政権運営がうまく回らないことは、旧民主党政権時に学んだはずです。
亡霊のように蘇った、小沢一郎の怨念
旧民主党は「脱官僚支配」という御旗を掲げていましたが、これは「右から左までの寄り合い所帯」と揶揄された政党として、政策で自民党との対立軸を作り出すのが困難だったためです。
したがって、政治手法に焦点を当てて対立軸を作ったわけです。こうした目くらまし的なやり方を得意とするのは小沢氏です。
自民党旧経世会(竹下派)の内部抗争に敗れ、党を飛び出した小沢氏の自民党憎しの感情は半端ではありません。
「官僚支配の自民党政治では改革を行うことができない」というロジックを組み立て、政治主導と官僚支配を対立概念に仕立て上げ、政治主導ならバラ色の世界が描けるといわんばかりの主張をし続ける。その路線に乗ったのが旧民主党の面々でした。
かねて小沢氏とそりの合わない菅氏でも、市民活動家出身ゆえ、「政治主導」 「脱官僚政治」という旗印なら小沢氏と手を組むことができたわけです。
この「官僚=悪」という構図に基づく政治手法に違和感を覚えていたのが、野田氏や前原誠司元外相、玄葉光一郎元外相らでした。
彼らには松下政経塾出身という共通項があります。政策的、感覚的に自民党に近い部分を持ち合わせており、実際、玄葉氏は福島県議時代は自民党所属です。
旧民主党内の対立の構図として「小沢系対非小沢系」とよくメディアで報じられましたが、非小沢系の代表格は前原氏や野田氏です。
合同ヒアリングで存在感を発揮しているのは非小沢系ではなく、森氏や原口氏、川内氏、立憲民主党の初鹿明博衆院議員など、小沢氏に近いあるいは小沢氏と関係が良好な議員、小沢氏と連携していた鳩山由紀夫元首相に近い議員が多いのです。
合同ヒアリングは、「脱官僚支配」を掲げた旧民主党が先祖返りした姿そのものです。さらにいえば、「脱官僚支配」の体質を旧民主党内で完成させた小沢氏の怨念が、亡霊のように甦った代物ともいえるでしょう。
(初出:月刊『Hanada』2020年1月号)
1970年生まれ、兵庫県西宮市出身。成蹊大経済学部卒。94年、産経新聞社入社。甲府支局、多摩支局、整理部、社会部を経て政治部に配属。野党クラブキャップ、霞(外務省)クラブキャップ、平河(自民党)クラブキャップ、水戸支局デスクなどを経て、現在、政治部編集委員、厚生労働省クラブキャップ兼野党クラブ顧問。