政治とメディアの永久機関
そしてAfDのある州の代表者がかつて起こした騒動と、その顛末を引く。その人物は著者が書いた記事の影響で党内の全ての役職を一度は失い除名処分に至ったにもかかわらず、その後、再び州代表に返り咲いた。そこに著者は「政治(党)とメディアの永久機関」のような構造を見出す。
過激な主張の党がことを起こせば報じないわけにはいかないが、AfDはそれを材料に騒ぎ、またメディアが報じざるを得ない状況へ持ち込んでいくというのだ。
著者の次の言葉は、重く見るべきだろう。
ときどき、私はこの政党と望まぬ共生関係に生きているような錯覚を覚える。思想的に取り込まれる心配があるからではない。むしろ、私はただ記者として当たり前の仕事――派手な演出の裏側にある現実を書くことをしているだけだ。ところが最近、AfDの政治家たちは、メディアが騒ぎ立ててくれることを期待して、挑発している節がある。そして、予想通り騒ぎになると、今度はその騒ぎをネタに怒る。
そして、騒ぎには見物人が集まる。党の名や認識が広まり、支持者も出てくる。そうしたサイクル(永久機関)化しているのではないかと顧みているのだ。
2025年参院選時のメディアの参政党報道はこの気配が確かにあった。
「日本人ファースト」のキャッチフレーズに慄いたメディアが、政党要件を満たしたばかりの参政党を大きく取り上げ、「もっと何かひどいことを言うのではないか」と目を見張り、参政党代表や候補の一挙手一投足を報じた。確かに唖然とするようなことも言っていたが、「観客」が報道を通じて伝えられる参政党の姿をどう受け止めるかは、報じる側の意図とは異なるケースも少なくない。
そしてそれはメディアだけでなく、SNS等でAfDについて批判的に発信する人たちも同様だ。そうした人たちからの視線や批判、嘲りを怒りに変えて、AfDは駆動しているのである。
しかも本書で著者は、唖然とするような発言を求めているのは、実は「AfDに寛容な観客」だけではない可能性をも指摘する。
AfDは常に人の心をざわつかせる存在だった。敵にとってさえも、だ。トランプだのヘッケ(注・AfD議員)だのと言った過激派がタブーを破るさまを追いかけるドイツ人の目つきには、どこか飢えた獣じみた欲望が宿っている。政治版のポルノグラフィとでも呼ぶべきか。恐怖が好奇心を呼び、好奇心がさらなる恐怖を求め、人は危険の輪郭を隅々まで知ろうとする。


