我が国の歴史を変えてしまう論
我が国の根幹は皇統を男系男子で継承することであり、安定的な皇位継承について政府の有識者会議は一昨年12月に報告書を取りまとめた。これを受け、自民党は具体的な検討を行う岸田文雄総裁の直属機関として「安定的な皇位継承の確保に関する懇談会」を11月に設置した。麻生太郎副総裁のもと、旧宮家の男系男子の方々の皇籍復帰をはじめ皇室典範の改正を視野に議論を進める。
こうした安定的な皇位継承の実現に向けた議論が進展する一方、保守だと主張する政治家や言論人で、万世一系、男系継承を否定する意見を述べる人がいる。いにしえからの我が国の歴史を変えてしまう論であり、根拠も希薄だ。SNS上でこの事について指摘したところ、「継体天皇で王朝交代」説や「過去は男系にこだわっていない」との説を述べる人がいた。
今回は、この説への反論を中心に記していきたい。
まず、これら根拠が希薄な説が拡散されることは、安定的な皇位継承において深刻な問題となりかねない。男系を否定することは、女系天皇容認に繋がることになるし、「継体天皇で王朝交代」説は、旧宮家の男系男子の皇籍復帰を妨げかねない。
過去、民間人としてお生まれになった後に皇籍復帰し、復帰後に天皇に即位された第60代醍醐天皇の例など、皇籍復帰は先例がいくつもある。一方で、「臣籍から皇籍復帰までの期間は短く、戦後に皇籍離脱した旧宮家はすでに離脱から76年が経過している」との指摘がある。
しかしながら、継体天皇においては応神天皇の5世孫であり、こうした指摘は継体天皇の先例においても十分反論することができる。だが、「継体天皇で王朝交代」説を取るなら、この継体天皇の先例は旧宮家の男系男子の皇籍復帰の論拠として述べられないことになる。
力による王朝交代は極めて困難
「継体天皇で王朝交代」説の根拠は希薄であると私は述べたが、継体天皇以前にすでにヤマト王権は日本各地の諸侯を従わせる強い力を持ち、統一国家を形成しており、これを力によって覆す王朝交代は極めて困難であり、戦が行われたという記述も考古資料もない。
もし、継体天皇で王朝交代が行われているなら、その200年後に成立した『古事記』『日本書紀』に王朝交代を明記しても、ヤマト王権は継体天皇の時代よりさらに強力となっており、正統性は揺るがず問題がなかったはずである。
『日本書紀』によれば、継体天皇は即位後19年にわたり大和に皇居を置いておらず、「この間に戦いがあり、平定できたので大和入りした」との説も唱えられているが、国宝である「隅田八幡神社人物画像鏡」の銘文では、継体天皇はすでにそれ以前から大和入りして対朝鮮外交において指揮を執っていると解釈できる。
皇居は大和の地に置かなかったものの実際はそれよりも早く大和入りし政務を行っていた可能性がある。また、継体天皇は、第24代仁賢天皇の皇女を皇后としていることから、戦いで権力を奪ったとするならつじつまが合わない。
『上宮記』における記述の解釈から、「継体天皇は実は垂仁天皇の皇子の5世孫で系図は改変されている」との論で王朝交代説を唱える人がいるが、これは否定する検証が多い。そもそもこの系図を取ったとしても、垂仁天皇の男系として繋がるわけであり、わざわざ改変する必要もない。
さらに、継体天皇以前の歴代の天皇陛下の御存在を疑問視する人もいるが、埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣銘は、第10代崇神天皇の実在を証明するものである。