日米の「対等性」の問題
しかも、これまた当然と言えば当然なのだが、日米首脳会談におけるシビアな課題と言えば、やはり安全保障(軍事)なのである。
首脳会談を取り仕切るのは外交のプロである外務省であり、その議題は日米貿易摩擦や半導体輸出規制など経済分野にも及ぶのだが、やはり常に中心にあるのは狭義の安全保障、軍事であり、日米安保(日米同盟)なのだ。
それは本書の副題〈政治指導者たちと同盟の70年〉の示すとおりであり、「厳しい安全保障環境は、軍事でなく外交で乗り切るべき」との声は多いが、両者は不可分なのである。
だからこそ、著者の山口氏が本書の裏テーマに据えていると思われるのが、日米関係、中でも日米安保に象徴される「対等性」をめぐる議論である。
日本もアメリカも、日米関係や日米安保体制(日米同盟)を長く続けるためには、対等であることが重要だとしている。双方がそう思っているのだから、対等な関係に近づいていくことは難しくないように思われるが、何をもって対等とするかの認識が日米間で微妙にずれている。
そのうえ、日本国内でも「現状、我が国はアメリカに従属しているのか否か」で議論が割れている。在日米軍の駐屯が占領の延長であるととらえられていることに加え、何をもって従属となり、対等となり得るのか、明確な基準が示されないまま、話が展開されているためであろう。
山口氏はこう書いている。
日本の民主党政権は「対等な日米関係」を標榜し、安倍晋三も米国との対等な関係を目指した。対等が叫ばれていること自体が、日米関係が対等ではないと考えられている証左である。日本は米国に従属しているとの言説はつねに一定の支持を得ている。
では、米国は従属している日本に負担を押し付け、一方的に利益だけを享受し、満足しているのか――。決してそうではない。米国では、トランプが主張したように、有事の際に日本は人を出さず、血を流すのは米国の若者との不満がくすぶり続けている。日本が米国に従属しているという言説だけでは、米国に日本への不満が蓄積していることを説明できない。
安倍元総理がトランプとの自撮りを公開した理由
日米安保は互いに「違うもの」、つまり日本は基地とカネ、アメリカは米兵というヒトを差し出しているために互いの認識はすれ違う。等価交換になっておらず、「どうも自分たちの方が多く(あるいは貴重な)何かを提供させられているのでは」という疑念が生じる余地がある。
日本国内でも同様に、「基地を提供している、沖縄は抑圧されている」という人からすれば、現状は対等でない、従属だとなるだろう。しかし、「基地を提供しない代わりに、自衛隊をもっと積極的に地域の安定のために活躍させる」、つまりヒトをもって対等性を実現しようという声はあがってこない。
自衛隊の活動を拡大させること自体が、なぜかむしろ「アメリカの要請によるもので、従属の一類型に過ぎない」「アメリカの先兵にされる」と解釈されてしまうのだ。
しかしこうした論法では、永久に対等な関係は実現できないのではないか。
核抑止に関して、安倍元総理から取材中にこんな言葉を聞いたことがある。
「日本に核を打てば確実にアメリカが反撃する。トランプと私の関係において、必ずそうするという関係性を世界に見せつけなければならない」
自撮りやゴルフなど、一部からは「行き過ぎた対米従属、対等ではない」関係に見えていた安倍―トランプの関係は、こうした安倍元総理の悲痛な覚悟と日本の置かれた現実の元に成り立ってもいたのである。