今や「日本民族」という言葉を使うだけで極右・排外主義者扱いされかねない時代だが、確かに沖縄の米軍基地への反対運動はどう考えても「ナショナリズム」に基づくものとしか言いようがない。
そういうと「あれは危険で人工的なナショナリズム(愛国心)に基づくものではなく、人間としてより自然なパトリオティズム(愛郷心)だ」という指摘もありそうだが、本書も述べる通り、両者は〈分かち難く絡み合っている〉。
にもかかわらず二つを分けて「ナショナリズムをことさら危険視して避ける」姿勢には問題がある、という。その理由を、中井氏はこう述べる。
ナショナリズムは人々を抑圧したり排除したりすることもあれば、人々に平等や助け合いをもたらすこともあるからだ。その価値は、両義的である。
確かに、社会福祉を考えても「なぜ同じ『国』とされる範囲内に生まれただけで、自分の稼ぎの一部を別の誰かのために使わなければならないのか」を考える際に、そこにナショナリズム、つまり「同じ政治的単位に属し、あるいは同じ文化や伝統を共有する者同士は助け合うべきだ」という土台は不可欠だ。
この点で昨今の「右」は「同胞を助ける」という点で非情な冷たさを発揮するケースが散見されるが、これは「右」という政治意識の位置付けに経済に対する志向が影響するとともに、実はその位置付け自体が流動的であることを示しているといえるだろう。
また、興味深いことに、「ナショナリズム」をタイトルに冠する書籍は年々増加しているのだという。本書の解説を読めば納得で、グローバル化が進んでいることがその一因と言えそうだ。
人間のアイデンティティが「他人との違いを見ることで自分を知る」ことによって形成されるとすれば、国のアイデンティティもまた同様なのだろう。グローバル化と情報化が進み、他国の情報に接することで、むしろナショナリズムへの関心や執着が高まるのは自然なことのように思える。
アメリカは「特殊」
さて、本書では「世界価値観調査」を使って、関連が強いとされる「ナショナリズムと排外主義」や、左右を分けるイシューになっていると思われるLGBTや男女同権、環境問題などとナショナリズムや国家への帰属意識の関係を国ごとに分析している。その結果は実に面白く、「右は反LGBT的である」との理解が日本のケースとは全く逆にひっくり返っている国もある。
また、何かと言えば日本社会との比較に出されるアメリカの事例が、世界各国と比べて突出して「特殊」であることも分かる。
日本の言論でも、右の立場から(自らをアメリカの右と重ねて)米国左派を批判するものは少なくないが、もともとの土台が日米では全く違っており、左右の政治思想についても実はかなりのずれがあることは踏まえる必要がありそうだ。
例えばアメリカは世界で最もナショナルアイデンティティと環境保護思想が負の関係にある社会で、両者は政治的に対立しているという。
日本でも右は環境保護やエコと聞くと何か偽善的なものを感じる人も少なくないだろうが、一方で右は古き良き日本の風景は末永く保たれるべきだと思っているのではないか。環境保護派が推進する再生エネルギーに対する否定的言説の焦点が、太陽光パネルによる環境破壊である点などを考えても、ナショナルアイデンティティと環境保護が負の相関関係にあるとは言えない。
実際の調査でも、日本では「環境保護とナショナリズムは別次元の問題」とされているのだ。