中世に「現地取材」を敢行!
ネットで瞬時に国内外の情報が入手できる現在の高度情報化社会でも、やはり現地に行って五感を働かせねば得られない情報がある。事前に得ていた情報や、そこから抱いた認識を、現地で覆されることはいくらでもある。これこそが現地取材や旅、海外研修の醍醐味に違いない。
ましてや日本の戦国期、つまり16世紀の世界はそうだった。現代人が思う以上に各国事情は相互に伝わり、貿易を含む海を越えたやり取りが多かった当時だが、それでも情報は限られていた。限られているがゆえに、一部の極端な見方が定着し、誤解を生んでいたこともあるようだ。
上田信『戦国日本を見た中国人 海の物語『日本一鑑』を読む』(講談社選書メチエ)の「はじめに」は、まさにそうしたステレオタイプな日本人像を紹介している。1607年に明代中国で編纂された民間の百科事典に登場する日本人は、もろ肌を脱ぎ、裸足で、肩に刀を担ぐいかつい姿だ。
当時の中国人が接した限られた日本人のうち1500年代半ばまで活動していた「倭寇」と呼ばれる海賊の印象が強かったうえ、1522年に日本の大名大内氏の命で中国へ渡った謙道宗設が起こした寧波事件で、「日本人は狂暴で野蛮」とのイメージが広まっていた。
寧波事件とは、貿易船の取り扱いを巡って袖にされた宗設が激怒、同じく日本から寧波に到着していた大名・細川氏の一行を襲撃し、逃げた人物を100キロも追いかけ、道中の民間人をも手に掛けたという当時の明朝を震撼させる大事件だったのだ。
ところがその中にあって、実際に海を渡って来日、「現地取材」を敢行したうえで日本人のイメージを覆す実態をルポルタージュとして書き残した人物がいる。それが、本書が紹介する鄭舜功という人物であり、『日本一鑑』という本だった。
「そりゃ痛いもんだよ」
「はじめに」では、そのルポの一端も紹介されている。日本人男性の頭髪(月代)について、どうやって頭を剃っているのかと鄭舜功が日本人に聞いた際のやり取りだ。
〈髪を剃る道具は、中程まで断ち割った竹片を、指で開いて髪の中に入れて、両手でねじって髪を抜く。彼らは、そりゃ痛いもんだよ、という〉
それは痛いだろう。想像するだけでも頭皮がひりひりしてくるが、この一文を読めただけでも、本書を読んだかいがあるというものだ。当時の日本人と鄭舜功の生き生きとしたやり取りが目に浮かぶようである(松潤扮する家康も竹で毛を抜いていたのだろうかと思えば、大河ドラマを見る目も変わる)。
『日本一鑑』は地理書から「日本語辞典」まで16巻。当時の人にとっては当たり前すぎてなかなか記録に残さなかった素朴なやりとりや、見聞きしたことを書き残しているという。描写は実に詳細で、そこに描かれる日本人は「確かに狂暴ではあるが、秩序だっている」というもの。
この『日本一鑑』は、鄭舜功の7年に渡る投獄生活中に執筆されたものだ。勝手に海を渡ったわけではなく、朝廷の命令を受けてのことだったにもかかわらず、帰国後、投獄の憂き目にあった。
当時の情勢から官吏ではなく私人として、当時の同胞が倭寇に苦しめられている状況を何とかしたいと考え、そのためには日本を知り、そのうえで朝廷に献策するべきだと考え、海を渡る。日中関係(当時は日明関係、だが)の改善が両国にとってプラスになると考えて現地入りした、いわば、在野の研究者や言論人のような立場である。