「気が狂ってしまいそうなんだよ」
ここで一報をくれた近親者からまた電話が鳴った。
「心肺停止という報道は事実です。相当厳しい。いつ死亡と言われてもおかしくない状況です」
いつもは朗朗としたオペラ歌手のような美声の持ち主だったが、携帯から聞こえる声は、くぐもった涙声だった。
「お辛いでしょう。もう、僕にそんな電話くれなくていいです」
「誰かに言わないと、気が狂ってしまいそうなんだよ」
近親者と電話で話している最中にまたNHKの速報音が鳴った。
「ついに死亡の速報か?」と固唾を飲んで画面を見ていると、「犯人逮捕」という字幕がでて、ひとまずホッと胸を撫で下ろした。
「NHKの速報は犯人逮捕という内容でしたよ」
「あぁ、そう。また電話するわ」
そう言って電話を切るや否や、また携帯が鳴った。別の関係者だった。
「心肺停止で蘇生措置を続けているが、最悪の事態に備えてドクターヘリで県立(医科大学病院)に運ぶ」
一報では救急車で搬送されたということだったから、大きな病院に転送するということなのだろうか。
「状況は大変厳しい。時間の問題。覚悟しておいてくれと言われた」
信じたくない情報だったが、この人は政府の一次情報にアクセスできる人物だけに、信用するしかなかった。
呆然としてテレビを観ていると、また速報音が鳴った。「ついにか」と覚悟していると、なかなかテロップが変わらない。
何秒も待たされた後に出てきたのは「犯人逮捕」と「凶器押収」の字幕だった。
しばらくして、NHKの緊急特番の画面が空撮映像に切り替わり、ドクターヘリと救急車、そしてブルーシートを写し出していた。
前述の関係者の言葉を信じるならば、政府は生還の可能性を諦めて、死亡会見に向けた準備に入ったということになる。
「生還を祈りましょう」
空撮画面に手を合わせていると、また携帯が鳴った。携帯の画面を見ると旧知の永田町の大切な友人だった。慌てて携帯を取ると、中年男性の嗚咽する声だけが聞こえる。
何となく状況を推察して、
「山口です。聞こえてますよ」
と何度か囁いてみた。しばらくうめき声が続いて、ようやく、
「山口さん、ごめん。忙しいのは重々承知だけど、どうしてもあなたの声が聞きたくなって」
私は驚いてもう一度携帯の画面で着信者の名前を確認した。いつも冷静沈着で、涙どころか喜怒哀楽の感情すらあまり表に出さない能吏(のうり)の名前だった。
「いやぁ、心の平衡を保つのが難しくてね。でもこんなことは周りの人には言えない。山口さんならわかってくれると思ってね」
この後、この能吏は堰を切ったように号泣した。
こうした旧知の友人からの電話は他に2本あった。みんな嗚咽していた。
私は「まだダメと決まったわけじゃないから、生還を祈りましょう」と言った。
すると3人が3人とも、
「もう無理なんだよ。もうダメなんだよ。そう聞いてる」と言う。
3人の中には、最新情報にアクセスできる人物も含まれていた。そういう人達だから敢えて詳細は聞かなった。政府内で「安倍元首相逝去」が既成事実として共有されていることを知っただけで十分だった。
このうちの1名は「そろそろ政府としても発表すべきタイミングです。延命が不可能であることははっきりしているわけだし、植物状態ということでもないんだから」と憤っていた。