中国共産党を支える「無謬神話」
なぜ中国は謝らないのか。コロナ禍の中で唯一、後世のためになった点といえば、それによって中国の異常性を世界がやっと考えるようになったことだろうか。
あまりの犠牲者の多さに当初は中国に同情していた国際社会。だが、今度は自国民の命が奪われ、そのうえ他国に責任を押しつけ、謝罪どころか開き直る態度を目の当たりにし、抑えようのない怒りが出てきた国は多い。WHO(世界保健機構)を意のままに動かすパワーと共に“世界の災厄国家”が、これでもかとクローズアップされてきたのである。
4月12日、読売新聞に〈「謝れない党」の自縄自縛〉という竹内誠一郎中国総局長の署名記事が掲載された。全四段のこの記事を読んで、思わず膝を打った向きも少なくあるまい。そこには、中国、いや、中国共産党が「なぜ謝れないのか」ということへの答えが出ていたからだ。
2月に中国・中央電視台のキャスターが「ごめんなさい、迷惑をかけましたと世界に頭を下げてみてはどうか」とSNSで呼びかけた結果を記事は伝えている。これだけの被害をもたらしたコロナ禍の当事国だけに、このキャスターの感覚は“本来なら”まともだと評価されるだろう。
だが、実際にはこのキャスターは非難の集中砲火を浴び、アカウント閉鎖に追い込まれた。中国では謝罪など「とんでもない」のだ。戦後、中国と韓国に延々と謝らされてばかりいる日本には、とても理解不能だろう。日本の感覚からいえば、さまざまな貢献をするにしても、まず謝罪し、「そこから」だからだ。だが、中国は謝らない。なぜだろうか。
答えは明快だ。政権が崩壊してしまうからである。読売の記事にはこうある。
〈歴代王朝では疫病などの災厄が起きると、皇帝は詔(みことのり)を発し、民に謝罪する慣例があった。漢代から2000年余りで平均8年に1回の頻度だ。たとえ天災であっても、皇帝たちは「天子(天の子孫)」として責任の所在を明確にした〉。
しかし、共産党政権には、王朝のような神託もなければ、選挙による民の信託も受けていない。
〈その正統性を支えるのは、誤りのない統治という「無謬神話」だ。過ちを認めることには「体制の崩壊につながりかねない」(党幹部)という強烈なエネルギーがある〉というのである。つまり、どれほどの失策を犯そうが、世界からどう非難されようが、中国共産党は「党の判断は正しかった」と言い続けなければならないのだ。
コロナが突きつけた日本の覚悟
私は、どうしても1989年の天安門事件(六・四事件)を思い出してしまう。胡耀邦・趙紫陽時代という日中国交正常化以降、最も日本とも関係が良好だった時期は、胡耀邦の死と趙紫陽失脚によって終わった。天安門広場を埋め尽くした学生たちの民主化運動も最後は軍の投入によって鎮圧され、中国人民解放軍は「人民に銃口を向ける軍隊」となった。
当時、私は刻々と入る情報を「共産党幹部にとっては生か死の狭間だな」と思いながら分析したことを記憶している。
この年は、すぐあとにベルリンの壁が崩壊し、それをきっかけに共産主義国家が雪崩を打って倒れていったのは周知のとおりだ。ルーマニアでは独裁者チャウシェスクが妻とともに公開処刑され、東ドイツではホーネッカーが亡命を余儀なくされて病死。各国は長い弾圧の下にいた大衆の怒りが爆発し、為政者は悲惨な末路を辿った。
中国共産党も条件は同じだった。民主化とは、そのまま自らの「死」を意味する。それは現在の習近平体制も変わらない。学生に理解を示し、大衆にも人気があった胡耀邦・趙紫陽時代ならいざ知らず、中国共産党が「強権」を手放す時は、人民による凄惨なリンチ死を幹部たちは覚悟しなければならない。それが中国共産党の「宿命」なのだ。では、その死を回避するためには何が必要か。
それこそが永遠に下ろすことができない「わが党に誤りはない」という無謬神話にほかならない。チベットでも、ウイグルでも、香港でも、共産党が「弾圧」でしか統治できない所以がそこにある。そして、哲人政治家・李登輝による“静かなる革命”によって奇跡の民主化を成し遂げた台湾が、中国と対峙しつづける根源もそこにある。
では、私たち日本は、どうすればいいのだろうか。武漢ウィルスという“怪物”出現で世界が分断されつつある今、私たちは自由・人権・民主という普遍的価値を掲げてアジアをリードしなければならないことをどのくらい認識しているだろうか。それを回避するなら、日本はやがてこの無謬国家によって自国の主権さえ守ることができなくなるだろう。
なぜ中国は謝らないのか。その意味を私たちは考え、覚悟を持つことが求められている。