締約国は、ヨーロッパ又は北アメリカにおける一又は二以上の締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃とみなすことに同意する。
したがって、締約国は、そのような武力攻撃が行われたときは、各締約国が、国際連合憲章第五十一条の規定によって認められている個別的又は集団的自衛権を行使して、北大西洋地域の安全を回復し及び維持するためにその必要と認める行動(兵力の使用を含む。)を個別的に及び他の締約国と共同して直ちに執ることにより、その攻撃を受けた締約国を援助することに同意する。
要するに、加盟国のうち一国でも他国から武力攻撃があった場合には、武力を用いた応戦をする――ということだと考えられている。
ところが、本書ではNATOはあれこれと話し合うばかりで、一向にエストニアへの加勢を表明しない。加勢しない理由として挙げられているのは「第三次世界大戦化、核戦争を避けるべき」「エストニアも、国内のロシア語話者の権利を保障してこなかった」などというもので、ウクライナを直に助けない理由とほぼ同じであることに驚愕する。
これではNATOに入っていても小国は大国同士の戦争を避けるために加勢を得られず、支援はするから自力で対抗しろ、ということになってしまう。そんな最悪のシミュレーションがあり得るのかと思うが、読むと「あの国ならこういうことを言い出しかねない」といったリアリティのある内容になっているのだ。
考えなければならないのは、こうした最悪の事態が起こり得るとしたら、国際社会や我々はどうしたらいいのか、ということだろう。シミュレーションは「当たるも八卦、当たらぬも八卦」の予言とは異なる。
「解説」で本誌でもおなじみの戦略学者・奥山真司氏も指摘しているが、シミュレーションとは全く同じことが起きるというものではなく、最悪の事態を想定したうえで、ではそうならないためにどうするかを考えるためにあるのだ。
ロシアの戦争で喜ぶ中国
本書が想定するロシアの野望は西へ西へと拡大を図るが、日本にとっても全く他人ごとではない。
マサラ氏が日本版序文で述べているとおり、ロシアがウクライナに勝利し、さらに領土的野心を満たすべくエストニアへ、もしかするとさらにその先へと侵攻することによって、アメリカの意識はヨーロッパに割かれることになり、アジア太平洋地域での米軍のプレゼンスは低下する。となれば喜ぶのは中国だからだ。
そして何より、「力による現状変更はアリ」という認識を世界中にもたらすという大問題がある。日本では「誰だって戦争なんてしたくないはずだ!」と「戦争したいなんて考えるのは、身を切らずに得するやつ(軍産複合体など)だけだ!」の二大勢力が目立つが、すでにロシアがそうしているように「戦争で得られるものがあるなら、犠牲が大きくてもやる」国もあるのだ。
そして本書が警鐘を鳴らしているのは、今まさに行われているウクライナ戦争でロシアが果実を得れば、さらなる果実を得るための行動に出かねない、という点だ。
始まってしまった戦争を終わらせるのは大変だが、できるだけ始めた側がうまみを得ないような形に持ち込まなければならない。それはウクライナ自身にとっての損失を最小限にするとともに、ロシアの侵略の可能性がある近隣諸国にとっての将来の損失を最小限にすることにもつながるからだ。