そもそもこの主張を功罪のうちの功とするのは、高橋氏の価値観であって万人に共通するものではありません。日本人を守るために亡くなった多くの人々の英霊を国家が弔うことは、本人はもとより、残された家族にとっても大切な心の儀式なのです。
朝日の「ポピュリズム」、読売の「反ポピュリズム」
高橋純子氏:ただ一方、ジャーナリズムの本分は権力監視だ。しかし渡辺氏は、自分自身が権力になってしまった。そしてその政局を操るプレーヤーになってしまった。これはやはり、ジャーナリストとしては一線を踏み越えている。これ罪は大きいと私は思う。
渡辺氏という私人が与党政治家に対して権力を振るうことは不可能です。政治家が渡辺氏の意見を理解すれば、政策として実現することは可能ですが、その場合にも権力を持っているのは国民という主権者の代表である政治家であり、渡辺氏ではありません。
もし、渡辺氏が読売新聞という媒体を背景にして政治家を恐喝していた場合には権力を振るうことも可能ですが、そのような事実は認められておらず、その有無を立証する責任があるのは高橋氏です。立証責任を果たすことなく「罪は大きい」と個人を断罪するのは、ジャーナリストとして一線を踏み越えた誹謗中傷に他なりません。
高橋純子氏:朝日新聞のインタビューで「読売新聞の社論を実行できる内閣になるのなら悪いことではない。そういう内閣に知恵を授けて具現化するのは私にとっては正義であると。それは合理的なことなんだ」と。そこまで公言して憚らない。
プロ野球の問題とかではナベツネ節みたいなことで括ってもいいのかもしれないが、ことジャーナリズムに関しては、とてもナベツネ節みたいな生易しいものではない。ここは私たち同じ業界にいるものとしては、ずっと考え続けて見つめ続けていく必要があると私は思っている。