貨物駅不要論に固執
初当選直後だった川勝は、とんでもない行動に出る。
高架事業の賛成派、反対派が一堂に会する集会で「貨物駅不要論」を突然ぶち上げ、反対派地権者に対する「強制収用」を全面否定したのだ。もちろん、このときも関係者に何の根回しもしていない。
高架事業計画策定から20年以上をかけてつくった事業計画の枠組みを、粉々に壊してしまったのである。
沼津市長は何度も川勝を説得しようとしたが、川勝が全く聞く耳を持たなかったため、貨物駅予定地の土地収用手続きを撤回せざるをえなくなった。
川勝の意向を受けて、県は沼津駅高架化を検証する有識者会議を設置。一年以上も議論して、結局は「貨物駅移転が不可欠」という従来どおりの結論を出した。
ところが、川勝知事は有識者会議の結論に耳を傾けることなく、「貨物駅不要論」に固執。貨物駅移転を川勝が了承したのは、それから五年近く経ってからだった。
事業計画は振り出しに戻り、移転の用地確保は困難を極めたものの、2020年11月、川勝がようやく反対地権者に対する強制収用の手続きに入ったことで、高架事業は前進した。川勝のちゃぶ台返しで、沼津駅高架事業は10年近く遅れてしまったのだ。
川勝の政治音痴ぶりがもっとも表れたのが、リニア問題だろう。
誤解している読者も多いと思うが、川勝ははじめからリニア反対ではなかった。
2010年、リニアに関する小委員会に出席した川勝は「静岡県としては、沿線地域として南アルプス地域での地質調査など、積極的に協力してまいりたい」と前向きな姿勢を示している。
それが反対に転じた原因は「静岡空港新駅」である。
「静岡空港新駅」は川勝の悲願だった。
川勝にとっての「政治」
静岡空港建設は、地元の激しい反対に遭ってきた。東京、大阪を結ぶドル箱路線などがなく、需要不足で赤字になるのは確実視されていたからだ。2001年には、即時中止を求める住民投票条例案が提出されるなど混迷を極めたが、当時、知事だった石川嘉延は、なんとか空港開港目前までこぎつけた。
2005年、四期目に入った石川は、2009年3月の空港開港を「公約」。ところが、2008年10月末になって思いがけない問題が発生する。
空港建設反対の地権者には土地の強制収用手続きを行い、すべて解決できたと思い込んでいたが、静岡県のずさんな測量で、空港周辺3カ所の立ち木約150本が航空機の就航に支障があることが判明したのだ。
立ち木所有者は「静岡県は空港建設でとごまかしを重ねてきた。組織のトップとしての政治責任を取ってもらう」と強硬な姿勢を崩さない。
石川は立ち木所有者と面会、自分の首を差し出す代わりに、立ち木伐採の約束を取り付ける形で決着をつけた。
川勝は石川の招請にこたえ、2007年4月、縁もゆかりもない静岡県の静岡文化芸術大学長に就いた。だから、石川が自身の首と引き換えに、立ち木問題のけりをつけたことを誰よりもよく知っている。
実は、静岡空港にはもう一つの大きな計画があった。ターミナルビル直下に地下新駅が計画されていたのだが、石川の辞任で叶わなかったのだ。
石川のあと知事に就いた川勝は、静岡空港新駅という石川の悲願も受け継ぐ形になった。川勝は、事あるごとにJR東海に静岡空港新駅をつくってほしいという秋波を送っている。
しかし、JR東海は聞く耳を持たなかった。静岡空港は掛川駅のすぐとなりにあるだけでなく、熱海、三島、新富士、静岡、浜松と新幹線の停車駅がたくさんある。仮に静岡空港新駅をつくったら、新幹線にもかかわらず各駅停車のような運行になってしまうからだ。
JR東海に聞き入れてもらえない川勝は、ついに2017年10月10日の会見で「私の堪忍袋の緒が切れました」 「勝手にトンネルを掘りなさんな、厳重に抗議し、その姿勢に対して猛省を促したい」と怒りを爆発させる。
これが、今日まで続くリニア妨害の序章となった。
普通の政治家であれば、JR東海、あるいは政府と水面下で交渉するなどして物事を動かそうとする。しかし、川勝は政治を知らないから、とにかく上から目線でJR東海をこき下ろし、リニア工事を「妨害」することで、JR東海が頭を下げてくると考えた。
なぜ、川勝がここまでしつこくリニア工事を妨害するのか、多くの国民は不思議に思っただろうが、この「妨害」活動こそ、川勝にとっては「政治」だったのだ。