優生保護法は1948(昭和23)年6月29日の衆議院本会議で、他の8本の法案と共に一括採決が行われた。一括されたのは議会運営委員会で共産党も含めて各会派間で賛否が分かれていないことが確認されていたからにほかならない。
共産党は最近まで、同法による強制不妊(断種)手術の被害者団体などから、この議事録を示され謝罪を要求されて際にも「採決時には共産党は退席していた可能性もある」などという言い訳をしていたともいわれている。しかし、9本もの議案すべての採決に共産党が退席することはあり得ない。もし優生保護法に共産党が「退席」を考えていたのなら、9議案一括の採決方法にはならなかった。
『百年』史が「誤り」として記載した1952年の法改定時の議事録には参院厚生委員会において、同改定案について共産党と日本社会党の2党が賛成討論を行い、のちの参院本会議で全会一致で可決成立したことが明記されている。1948年と1952年の議事録中の表記の違いは賛成した党の党名が明記されているか否かだが、党名がなくても議事録をよく読めば、1948年にも共産党が賛成していることはわかるはずだ。
「病弱者の妊娠中絶を」――優生思想普及の決議で賛成討論
しかも、共産党は優生保護法やその元になった優生思想を〝黙認〟という消極的姿勢ではなく、積極的に賛成、推進する立場だった。
優生保護法成立の翌年1949年5月12日の衆議院本会議において、「人口問題に関する決議」が全会一致で採択された。この決議は「健全な受胎調節思想の普及に努力すること」を掲げ、その具体的方法として「優生思想及び優生保護法の普及を図ること」が明記されていた。優生保護法推進のための国会決議である。
この決議への賛成討論を行ったのも日本社会党と共産党の2党だけである。全会一致となることが分かっている決議案に野党でありながら、わざわざ賛成討論を行うところに共産党の並々ならぬ積極性が見て取れる。
共産党を代表して討論を行った砂間一良議員は「病弱者の妊娠中絶をはかりまして適当に人口の自然増加を抑制することは、現在の状態のもとにおきましては必要にしてやむを得ない手段と考えるのであります」などと述べている。共産党にとって「病弱者」は淘汰すべき対象と考えられていたのである。
女性議員によるあからさまな優生思想の表明
1952年の優生保護法改定時の賛成討論を行ったのは、苅田アサノ参院議員だった。苅田は「これは単に悪質の遺伝を残さない、あるいは暴行等の不幸な災害から婦人の妊娠を拒絶する権利を守るということだけではありませんで、これは明らかに経済的な理由に基づいておるものであります」と述べたうえで、「根本的にいえば、まず第一番にこういう(再軍備を肯定する)政府を倒して、自主的に平和産業を拡大し、積極的につくることにあるのであります。しかし、それまでの過渡的な方法といたしまして、私たちは優生保護法によるこういう産児制限とか受胎調整に対しては、やむを得ないこととしてこれを承認するわけであります」と優生保護法に賛成したことを合理化した。精神疾患 や「悪質な遺伝」を持つ人の断種は当然であり、「経済的な理由」がある人=貧困者の産児制限も、共産党が政権を獲得するまでは「やむを得ない」とするあからさまな優生思想の表明であった。