このリニア新幹線は、川勝知事、最大の問題である。川勝知事の反対によって、完成の見通しが全く立たないのだ。
リニア新幹線は、世界最大の革新的な高速鉄道プロジェクト。
電磁石を利用して浮上走行。走行速度は新幹線の2倍も速い、時速500キロを想定。遠隔操作で運転士はおらず、東京─名古屋間の約86%がトンネルで、所要時間は40分。2027年開業を予定、延伸して東京─大阪間を67分で結ぶ、総工費九兆円超の国家的な大事業である。
2011年3月、東日本大震災、福島第一原発事故が日本へ壊滅的な大打撃を与えたその2カ月後の5月、リニアの整備計画が決定され、日本の再生に向けて大きな一歩を踏み出した。
当初は、静岡県を通過せず、長野県の茅野、伊那周辺を通過する「迂回ルート」が大本命とされていたが、整備計画決定で最も採算性の高い、直線の「南アルプスルート」を採用した。南アルプストンネル25キロのうち、山梨県の7・7キロ、長野県の8・4キロ、そして静岡県は最北部の大井川源流部にある南アルプス直下8・9キロに建設されることになった。
リニア建設を強く望む山梨、長野などの沿線各県が設置した学者会議は、「中国、韓国などの人々が観光旅行に動き始めれば、日本の山岳旅行が脚光を浴びる。来日する多くの観光客が『リニア』と『山(富士山、北アルプス、南アルプスなど)』という二大観光ポイントを押さえたことになる」と指摘した。
人口半減時代に向かうなか、日本経済の発展を支えるインバウンド(来日観光客)とリニア開業を結び付けて、大きな観光商品になると見ていたのだ。
同会議は、静岡県が1964年の東海道新幹線開業によってさまざまな恩恵を受けて発展してきたと分析。だからこそ、リニア開業は中央線沿線に驚異的な恩恵をもたらすと試算した。
逆に、静岡県はリニア開業によって「衰退」に向かうことも予測された。リニアができれば、人々は本当に素通りしてしまう。
2009年に開業した静岡空港は、利用者を160万人から170万人と予測したが、開業してみれば予測の半分にも満たない惨憺たる数字が続き、静岡経済の停滞が始まったと指摘された。リニア開業後は、全国屈指とされる「ものづくり県」 「観光立県」などの名称は、静岡県から長野、山梨県に移る可能性が高い。
リニアでも「川勝激情」全開
当初、JR東海の要請を受けた静岡県は、東海道新幹線に余裕が生まれ、静岡空港の地下に接続する新駅構想に追い風になるという理由で、リニア静岡工事の支援を決めていた。
ところが、2018年、川勝知事は大井川中下流域の人たちの「水環境が損なわれる」という不安の声に、トンネル工事の着工に待ったを掛けたい意向を『日経ビジネス』のインタビュー(2018年8月20日号)で伝えた。
「静岡県の6人に1人が塗炭の苦しみを味わうことになる。それを黙って見過ごすわけにはいかない」
「全量を戻してもらう。これは県民の生死に関わること」
「水が止まったら、もう、戻せません。そうなったら、おとなしい静岡の人たちがリニア新幹線の線路に座りこみますよ」
ここでもおなじみの「川勝激情」全開だった。
話は少し遡る。
過去の知事会見を調べていくと、2017年10月10日会見で、記者から「(リニア計画に反対しても)知事の認可は必要ではなく、(JR東海は)無理やり進めることもできる。
今後の展開によっては司法の場に訴えるのか?」と問われ、知事は「いろいろな措置が考えられる。これは命の問題、産業の問題、生活の問題にかかわっている。JR東海はこうしたことを覚悟しなければならない」などと曖昧に答え、知事の権限でストップできないことを示唆していた。
『日経ビジネス』を読んだあと、わたしが県のリニア担当者に話を聞くと、案の定、県は大した権限を持っていないことが分かった。JR東海にとって、県との交渉は単に道義的な問題との説明を受けた。
つまり、県はJR東海に対抗できるような権限は持たないのだ。
その後、JR東海幹部の「強行着工も辞さない」という発言が一部の新聞に掲載された。はたして、本当にそうなってしまうのか?
わたしは2003年、国交省静岡河川事務所と協働事業を展開するNPO法人を立ち上げた。きっかけは安倍川の河床が大幅に上昇していたことだった。
昭和30年代は、現在とはほど遠い貧しい時代だった。オリンピックのための諸施設、道路などのほかオリンピック景気で人口増加が顕著となり、東京では住宅が極度に不足していた。四角い箱のようなコンクリート団地がどんどんつくられ、そのために大量の砂利が必要だった。
地方は資源と人を東京に送り続けた。安倍川は、東京という大都会の発展のためにやせ細った。だから、美しい清水海岸も消えてしまったのだ。
二度とそのような愚かな行いを許さない。安倍川の環境問題に取り組んでいくNPO設立に、清水海岸侵食災害防止対策促進期成同盟会代表らも賛同、何度かの話し合いの末、合意にこぎつけた。それから約10年間、わたしは安倍川と同様に、大井川の問題にも取り組んできた。