老生、初詣は近くの小神社。そのあとは、することもなく、行くところもなく、平平凡凡にテレビを観ていた。老人の生活である。
テレビはどれもこれもただガチャガチャ騒々しく玩具箱をひっくりかえしたようなさま。その中で、ふっとAKB48の歌が出てきた。もちろん、手を振り足を振りしての御出座し。
その歌詞を聞いて驚いた。自分たちは戦わない、愛を信じてるから、と来た。
反戦歌である。要するに〈行動として〉戦わない。その代り、相手に対する愛を信じている、つまり愛があるので、愛で相手をやさしく包みこむ、と歌う。
愚かな話である。そんな高尚なことができるのは、神、それも一神教における全知全能の神のみである。その神になろうというのである。短いスカートで跳ねまわって踊っているあの小娘集団が。
これ以上のギャグはない。呵呵大笑。なら、こうも言えよう、次々と。
自分たちは戦わない。生命が惜しいから。
自分たちは戦わない。バイトがあるから。
自分たちは戦わない。デートがあるから。
自分たちは戦わない。飲み会があるから。
自分たちは戦わない。試験があるから。
その程度の〈愛があるから〉である。
〈愛があるから〉の空理空論
そうした空理空論が世に蔓延っている。例えば、平成27年のこと、NPO法人「難民支援協会」など難民支援に関わる14団体が、9月28日、シリア難民を国内に受け入れるよう安倍晋三首相宛の申入れ書を政府に出した(毎日新聞9月29日)。
冗談ではない。日本人にして日々の生活が大変という人々がたくさんいる。そうした人々の救済はさておき、外国の難民を受け入れろだと? 本末顚倒である。おそらくこういう理屈であろう、日本は豊かだから、難民受け入れできるでしょう、私たちには〈愛があるから〉。
舞台は飛んで大阪。卒業式における国歌、君が代の起立斉唱を拒んだ大阪府立高校教員に対する減給の懲戒処分の取消しならびに慰謝料200万円を府に求めた裁判の判決があった。その請求は棄却と。すなわち敗訴である(毎日新聞27年12月22日付)。
その記事中、原告の奥野某はこう言う。起立斉唱を拒んだのはクリスチャンとしての信仰が第一原因と。
その詳細はこの記事では分らないが、府立高校教員中、クリスチャンは彼1人ではない。すると、彼からすれば、彼以外のクリスチャン教員はすべて背教徒と言うのか。
しかし、おそらく彼は、AKB48流にこう答えるだろう、他のクリスチャン教員とは戦わない、自分には〈愛があるから〉。結構な話ですね。なら、ついでにこう言ったらどうか、自分を処分した大阪府とは戦わない、自分には〈愛があるから〉と。「汝の敵を愛せよ」とね。
この御都合主義的クリスチャン教員は第二原因としてこう言う、「起立の強制は国民を戦争に駆り立てた戦前の教育につながる」と。爆笑ものの小理屈。これは飲み屋での小話に使える。もし彼がそれで老生に文句をつけてきたとしたら、こう答えよう。あなたとは戦いません。私にはあなたに対する〈愛があるから〉と。
加藤典洋の愚かさ
こうした空理空論の大人版が出てきた。加藤典洋著『戦後入門』をめぐっての著者インタビュー(毎日新聞大阪夕刊27年12月21日)に拠れば「国の交戦権は、これを国連に移譲する」と来た。
愚かさも極まった空理空論。国連安保理事会における大国理事の〈拒否権〉をどのようにしてなくすことができるのか。絶対にできない。国連軍出動が特定国家の拒否権で左右されている現実に対する具体案がなくて何を言っている。そうか、こう言えばいいか、日本自衛隊を国連に捧げます。愛があるからと。
古人曰く「〔自分は〕耕やす能はずして、黍(きび)粱(大あわ)を欲す。織る能はずして、采裳(美しい衣裳)を喜ぶ」と。