2020年の東京五輪を目前にして、選手にかかるプレッシャーは、常人には理解しがたいものがあります。たとえば、昨年発覚したカヌー競技の事例では、五輪出場を争っていたライバル選手の飲み物に、ある選手が禁止薬物を混入してしまうという驚くべき事態が起きました。 「スポーツ精神にあるまじき行為」という批判は当然ですが、自分が五輪に出場できないことは、家族や所属先など、応援してくれる全ての人を失望させるという許されない事実なのです。
スポーツは、「結果が出なくても頑張ったから」といって評価される世界ではありません。五輪に出場した人ならわかりますが、メダルの有無で帰国する飛行機の席も、飛行機を降りていく順番も明確に分けられ、メダルを取れなかった現実を突きつけられるのです。
自分が必死に頑張っても、これ以上どうにもならない時、相手が怪我をしたり、調子を落としてくれたら……と期待するなというのは綺麗事にも思えます。たしかに不健全極まりない思考ではありますが、責任感のある人であればあるほど追い詰められ、冷静さを失ってしまう可能性はあります。
プレッシャーを与え、追い込むことが1つのカンフル剤にはなるのですが、使い方を間違えれば驚くような結果を招いてしまう。日大アメフト部の問題は、その難しさを突きつけたともいえるでしょう。
こういった状況下では、時に行き過ぎた指導が行われる状況が生まれやすくなります。しかし選手が情熱を燃やしていればなおのこと、指導者には冷静さが求められます。私はよく「冷静と情熱のあいだ」と言っているのですが、矛盾した2つの感情のなかでバランスを取ることが必要です。
「強いものが偉い」世界
もちろん誰もが、指導者になってすぐそのような「悟りの境地」に立てるわけではありません。試行錯誤を繰り返しながら、選手と指導者のちょうどいい関係性を模索していく。その場合に、経験値のある指導者のアドバイスが必要になります。
年配の指導者は、そうでなくても埋められない世代間ギャップで軋轢を生んだり、選手と年齢が離れすぎて対等な関係を築けなくなってくるものです。ならば一線を退き、若いコーチと選手たちが猪突猛進しそうなところを少し客観的な立場から、冷静で有益なアドバイスを送れるようなポジションを取ったほうがいいのかもしれません。
指導の現場には多様性も必要でしょう。スポーツ界ではどうしても「強いものが偉い」。仮に少々理不尽であっても、結果を残す人の意見が通りやすいのはスポーツ界の常です。
しかし、そういうチームが新しい視点や論理を得れば、より飛躍する可能性が生まれます。支配的な組織では、どんなに伸びても指導者の思考範囲以上のレベルに達することはできない。選手も含め、より多くの頭脳が闊達に意見を出し合い、責任は監督が取るとしても、最後の選択肢は選手に委ねられているという組織のほうが、結果的には伸びしろが大きいのではないでしょうか。
スポーツ界の宿命として、どうしても、実績を残した人が指導者に抜擢されがちです。しかし、選手として実績を残した人が優れた指導者かといえば、必ずしもそうではありません。むしろ、深く考えなくてもできてしまう才能の持ち主は、頑張ってもできない人の気持ちは分からない。
私は筑波大学で教えていますが、トップレベルの選手ではないものの、指導という面で鋭い感性や視点を持っている学生もたくさんいます。こういう意見を吸い上げ、人材を発掘、育成できるシステムの構築は、スポーツに限らず日本の組織の至る所で今後、必要とされるのかもしれません。
新たな兆候も見えてきています。たとえば青山学院大学陸上部の原晋監督。原監督は実業団での陸上選手経験はあるものの、故障で選手生活を引退していますし、箱根駅伝の出場経験はありません。しかし、監督として箱根駅伝4連覇という結果を残しています。
しかもその指導法は、上から押し付ける支配的指導ではなく、選手の考える力を引き出すもの。連覇のプレッシャーのなかでも、選手を精神的に追い詰めていくような指導法を取ってはいません。
原監督はこう仰っています。
〈いまの子供は、働いても報われない組織なら最初から頑張りません。逆に大会のメンバーから漏れても、評価がフェアで理由が明確であれば納得してくれる〉
これは、現在のスポーツ指導に非常に重要な要素です。先ほども述べたように、いまの選手たちは自分が納得し、それをやることが自分の目標に近づくことにがると理解すれば、自分から動くのです。