何も映画に限った話ではないのだけれど、作家がよく口にするせりふがある。作品というものは作者の手を離れてはじめて完成する。見る人の目に触れ、聴く人の耳に届いて、めでたく一個の作品となる。
もちろん、作品の評価は鑑賞する側に委ねられる。早い話、私たちの自由勝手だ。良かったの、面白かったの、くだらないの、いまいちだの。人の心の千姿万態。
これはつれづれなるままに、ふと思い立って、人様に話したこともない私の映画遍歴(大仰だ)の一端をつづったものである(なにぶん昔話だから、記憶違いなどはご容赦ください)。
やっぱり映画は時代の鏡
『フィールド・オブ・ドリームス』(1989)にはいささか思い入れがある。
アイオワ州で農業を営む30代の男が、ある日、トウモロコシ畑で、「それをつくれば、彼は来る」という天の声を聞く。男は感じるところがあって、畑をつぶして野球場を造る。と、1919年のワールド・シリーズで起きた八百長事件(野球賭博)に関係したとの疑いで、球界から追放された名選手シューレス・ジョーが姿を現すではないか。ほかにも、当時の名選手たちが続々と。
私はこれを夜のホール試写で観た。都内各所の試写室がいわば職場で、夜の一般ファン向けのホール試写で観ることはめったにないことだったのだが、その夜だけ、観客全員に米大リーグボールをプレゼントする、とたしか新聞広告で知って出かけたのだ。実は、当時高校に入ったばかりの愚息の注文だった。彼は中学までは野球部のレギュラーだった。
原作がW・P・キンセラの小説『シューレス・ジョー』で、脚本、監督はフィル・アルデン・ロビンソン、主演がケビン・コスナー。バート・ランカスター、ジェームズ・アール・ジョーンズも出ていた。
これは、どこを切ってもアメリカ映画だった。これが作られたのは冷戦終結前夜で、アメリカは世界でただひとり強大で偉大な国だった。元学生運動の闘士(年のころから見て60年代末から70年代はじめ)だった主人公は、いまでは典型的な白人中産階級の価値観に染まりかけている。
彼は家族、妻も娘もこよなく愛している。夢を信じている。だからゴーストが現れたのだが、そのゴーストは、彼と妻子にだけは見えるが、物欲にかられた俗悪な連中には見えない。彼は、周囲からかけがえのない何か、人間らしい何かが失われつつあるのに気付いている。
いまのアメリカを知る私たちには全く信じられないような映画である。はるか遠い国の寓話としか思えない。映画は時代の鏡と言い慣わされているけれど、心底そう思う。
終幕に作品の真のテーマが明らかになる。シューレス・ジョーの熱烈なファンだった主人公の父親が姿を見せるのだ。「彼が来る」の彼とは主人公の亡父だったのだ。そして親子は、過去を清算して和解する。
ラストシーンの父と息子がキャッチボールするシーンで涙がこぼれた。目が潤むことはよくあるけれど、涙がを濡らすことなどそうそうはなかった。私は父とキャッチボールをしたことがなかった。父は病弱で、私が大学一年の時に死んでいる。
『フィールド・オブ・ドリームス』