【読書亡羊】激震の朝鮮半島に学ぶ食と愛国心  キム・ミンジュ『北朝鮮に出勤します』(新泉者)、キム・ヤンヒ『北朝鮮の食卓』(原書房)

【読書亡羊】激震の朝鮮半島に学ぶ食と愛国心 キム・ミンジュ『北朝鮮に出勤します』(新泉者)、キム・ヤンヒ『北朝鮮の食卓』(原書房)

その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする時事書評!


揺れる半島情勢、あえて読みたい本がある

朝鮮半島が揺れている。しかも今回は、韓国側が震源地となっている。

朝鮮半島の問題と言えば、北朝鮮がミサイル発射やロシア支援のための派兵を行ったことで波紋を広げてきた。だが、ここへきて突如として韓国の尹大統領が発した戒厳令と6時間後の解除に続き、大統領の職務停止、弾劾訴追からの否決、大統領に戒厳を持ち掛けたとされる前国防相の自殺未遂など、息つく暇もない大揺れの状況にある。

これに対し北朝鮮も「独裁の銃剣を国民に躊躇なく突きつける衝撃的な事件で、韓国全土を阿鼻叫喚の状態に陥れた」と非難した。

どうにも落ち着かない半島情勢だが、ここでは今年発売された、韓国人筆者による北朝鮮に関する書籍をご紹介したい。

2004年に南北の経済協力事業として開業した開城工業団地に韓国側から「出勤」していたキム・ミンジュ氏の『北朝鮮に出勤します』(新泉社、岡裕美訳)は、まさに南北の人たちが一緒に働くかとどうなるか、を実体験から綴ったノンフィクションエッセイ。

キム・ミンジュ氏は20代の女性で、北朝鮮の人道支援や脱北者支援に携わり、国連組織でのインターン経験もある。2015年から開城で働く北朝鮮労働者の給食事業を担う会社の社員として、北朝鮮側に通勤していたという。

開城工業団地は2016年に突如、操業停止が決まるのだが、本書はまさにその最後の1年間の記録である。

北朝鮮に出勤します―開城工業団地で働いた一年間

韓国にやたらマウントを取る北朝鮮の人々

工業団地で働く北朝鮮の人々は、キム・ミンジュ氏にとって「同じ言葉を話し、本当は同じ国の国民であったはずの、異質な人々」であるようだ。

北の労働者たちは主に女性だが、体制から「韓国人と仲良くするな、必要以上の会話をするな」と申し渡されている。しかしそれでも自分たちのことを考えていろいろと取り計らってくれる著者に対し、労働者の女性たちは次第に人間的な表情を垣間見せるようになる。

ただしそれは、北朝鮮側の他人が居合わせない場合のみ。「南の人間」と親しげにしているところを他人に見られると「総和」という吊し上げを食らうようで、同じ北の労働者がいる場面ではそっけない態度や「北の方が南より優れている」とのマウントを取る。そうした様が、本書には実に細やかな観察力で綴られているのだ。

一方で、北の労働者たちは南の商品の品質の良さを実は知ってはいる。韓国製のシャンプーを、表では「北のものの方がずっと優れている!」と批判しながらも、陰でコッソリ髪を洗うのに使っていたり、著者が韓国で人気のロールケーキを差し入れたときには、思わず北の労働者たちも「おいしい」と目を丸くしたりするのだ。

開城工業団地で働く女性たちは国内では比較的裕福な層に当たるようだが、にもかかわらず北朝鮮社会の貧しさを感じさせるエピソードにも事欠かない。何より物悲しいのは、残飯を使いまわしのビニール袋に入れて持ち帰る女性たちの姿だ。

おそらく子供や家族に食べさせるためなのだろうが、飢えに苦しんでいる層の人たちでなくても、給食されるような食材にありつくのは難しいのだろう。そこには「おいしいものを家族に食べさせたい」との女性たちの愛情が見える。

だが、彼女らをそうした状況に押しとどめている金体制に対しては、全く怒りを覚えていないことも見えてくる。南にマウントを取るとなれば、とにかく「将軍様のおかげで救われた」とのエピソードを繰り出し、韓国を憐れんでみせるのだ。

これはもう感情の問題ではなく、自動的にそうした文言が口から出てくるように、意識づけられたものだろう。

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書評 読書亡羊 梶原麻衣子

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