哀悼の思いが自然に湧いてきた
3月30日に硫黄島で行われた「日米硫黄島戦没者合同慰霊追悼顕彰式」に参列した。硫黄島の戦いは1か月を超える先の大戦有数の大激戦であり、日本軍約2万2千人、米軍7千人、日米両軍合わせて2万9千人が亡くなっている。
今年の日米合同式典には、日本側からは、硫黄島協会の寺本鐵朗会長やご遺族、自衛隊、防衛省、外務省、遺骨収集が所管の厚労省の幹部に加え、超党派国会議員でつくる硫黄島問題懇話会の逢沢一郎会長、遺族代表の新藤義孝経済再生担当大臣など国会議員7人の計110人が参加した。
羽田空港からJALのチャーター便で向かい、2時間10分で硫黄島に到着した。硫黄島は戦前、戦中は1000人超の島民がいたが、昭和19(1944)年の集団疎開、戦後の米国占領を経て、現在は海上自衛隊硫黄島航空基地で任務にあたる自衛隊員や工事関係者のみが滞在している。
硫黄島上空に差しかかり陸地が見えると、この地で多くの方が亡くなったことに対する哀悼の思いが自然に湧いてきた。飛行機は無事に自衛隊基地の滑走路に着陸し、日米合同式典が行われる日米再会記念碑前の会場に向かった。
日米再会記念碑は、昭和60(1985)年2月19日、硫黄島に米軍が上陸して40年目に、「名誉の再会」の式典が開催されるにあたり、日米共同で建立されたものだ。
碑の両面には碑文が刻まれ、山側には日本語で、海岸側には英語で記されている。すなわち、碑の両側に硫黄島の戦いと同じ態勢で日米の碑文が刻まれている。
碑文は次のように刻まれている。
硫黄島戦闘四十周年に当たり、曾つての日米軍人は本日茲に、平和と友好の裡に同じ砂浜の上に再会す。
我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦ったことを銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之を繰り返すことのないよう祈る次第である。
先人の尊さと平和の尊さを体感
昭和60年の「名誉の再会」式典には、硫黄島の戦いに参加した日米両軍の兵士、遺族ら502名が参列し、日米再会記念碑を挟んで、山側には日本人参加者、海岸側には米国人参加者が整列した。日米双方の参加者は、献花の後、お互いに歩み寄り、抱擁を交わし合った。40年経って、ついに日米の戦いの交わりは平和の交わりとなったのである。
その後、当初は10年ごと、関係者が高齢となった近年は毎年、日米合同式典が開催されてきた。会場に着くと、自衛隊と米海兵隊の音楽隊が合同で演奏していた。
米国側からは米国硫黄島協会のデービッド・バイス海兵隊退役少将、レイモンド・グリーン駐日首席公使と第三海兵遠征軍司令官のロジャー・ターナー中将など約100名が参加した。
式典では、日米両国国旗の入場、国歌斉唱が行われ、日米双方代表からスピーチがあった後、献花と献水が行われた。献水は日本側のみで行われ、水に窮した硫黄島で散華されたご英霊を供養するものである。そして、鎮魂歌として、日本側は「ふるさと」、米国側は「アメイジンググレイス」の奉唱があり、黙とうが行われた。両国参加者は改めて、命を懸け祖国を守ってきた先人の尊さと平和の尊さを体感した。
その後、日本側参加者は、硫黄島戦没者の碑(天山慰霊碑)に移動し、慰霊追悼顕彰式が行われた。そして、島内の巡拝へ。
まず、天山慰霊碑の下にある地下壕・天山壕の中に入ったが、驚愕した。坑道はとても狭く、這うように身をかがめて進んだが、壕の中の温度は65度で、熱気が四方八方から襲う。とても長時間過ごせるような環境ではない。こうした壕に1か月以上もこもり戦闘を継続したとは、本当に気の遠くなるような思いを感じた。
それでもご英霊は、祖国を守り家族を守ろうと戦い続け、玉砕したのである。硫黄島をはじめ多くのご英霊の力で、今の日本があると改めて噛み締めた。