ドイツで救急搬送される
花田 そもそも健五さんはなぜ、文藝春秋に入ったんですか?
田中 たまたま、文春に顔のある友人がいたんだよ。
花田 出版をやりたかったんですか?
田中 まぁ、ジャーナリストの何かになりたいとは思っていましたね。それくらいしかなれないだろうと(笑)。ジャーナリストとか物書きは、勉強しなくてもよかったからね。
そもそも大学に行く時だって、勉強しなくて済むと聞いたから文学部に行ったんだよ。それも、英文などより競争率が低いからと独文を選んだだけ。それで、いかにうまく遊ぶかを考えていた。もちろん、アルバイトもしましたけどね。自活していたから。
肉体労働もやったし、家庭教師もやった。それから、当時の新制高校には第二外国語があって、新宿高校でドイツ語を教えてた。一年前に大学でドイツ語を始めたばかりで、高校で教えているんだからいい加減なものだね(笑)。
それで、ドイツ語を中途半端にやったなという後悔があったから、会社を辞めてから真面目にやろうとドイツへ行ったりしたわけよ。行ったり来たりで、合わせて一年くらいは行ったかな。
木滑 でも、ドイツの郵便局で倒れちゃったんでしょ。
田中 そう。心房細動が起きてね。シュツットガルトでのことなんだけど、向こうの東大病院みたいなところに運び込まれた。倒れて一時間半くらいで目を覚ましたら、なんか高そうな病院だったから「俺は帰る」と言ったんだけど、「冗談じゃない」と引きとめられた(笑)。
翌日に退院して、もらった薬を飲みながらフランクフルトで五日間過ごして、帰国した。家に帰って寝る時に、頭が熱くて重い。これはおかしいと病院に駆け込んだら、軽い脳梗塞だったんだよ。だから倒れたのも、脳梗塞に心房細動が合わさったからじゃないかと思う。幸い、脳梗塞は薬で治った。
木滑 年寄りは、いつの間にか病気の話になっちゃうな(笑)。
花田 文春に入って仕事はどうでしたか? 面白かったでしょ?
田中 いや、面白くなかったな。「自分が役に立つことがあるのかな」と思っている時期が5、6年あったからね。というのは、新人時代は原稿取りくらいしかしないでしょ。
木滑 岩田専太郎の絵も取りに行ってませんでした?
田中 行ってた。絵を待っている間に、他社の編集者とマージャンをしてたな。
で、そのあと、『現代日本文学館』とか『大世界史』とかを編集した時に少し忙しくなってきて、少しは会社の役に立ってきたかなと思ったね。
現代日本文学館全43巻
活気に満ちていた文壇
花田 役に立つも何も、『現代日本文学館』は健五さんが先頭でやったものでしょう。あれはいい全集でした。装幀もすばらしかった。健五さんはその後、『大世界史』をやって論壇の人と交流を深めたんですよね。
田中 それはそうだね。その後、『諸君』に出てもらった物書きは、その時に出会った人が多いですね。林健太郎と腹割って話すようになったのもその時だし。
花田 『現代日本文学館』は、小林秀雄さんの責任編集でしたよね。
田中 『現代日本文学館』の編集の助っ人をやったのが大岡昇平、中村光夫で、僕は使いっ走りみたいなものだった。
ある時、誰を入れるか、誰と誰を組み合わせるかの荒目次ができて、各著者に挨拶をすることになった。それで僕は石川淳のところに行ったんだ。そうしたら石川淳が、「俺と小林は同い年なんだよ……。なんで俺が”相乗り”(他の作家と組み合わせて一冊にする)なんだよ」と怒った。
戻って会議でそう伝えると、小林さんは「じゃあ、石川は一冊にしよう」という。すると大岡昇平が、「小林(──大岡さんは後輩なのに呼び捨てにするんだよ──)、そんなことでどうする。全集が物にならないぞ」。酒が入っていたせいか、「やるか、この野郎!」なんて騒ぎになっちゃった(笑)。
翌日、たまたま大岡昇平、中村光夫らとゴルフに行ったんだけど、送り出した僕に大岡が、「昨日、面白いもの見たな。小林秀雄の酔っ払った姿は久しくなかった」と言われた(笑)。いい歳していたけど、みんな子供みたいでしたね。そういう文壇の面白さも、いまはなくなりましたね。
花田 結局、石川淳さんは一人で一巻になったんですか?
田中 そうですね。なりました。