「津波(Tsunami)」と伊達政宗
なお、国際語になっている「津波(Tsunami)」は、1611年の慶長三陸大津波の後、仙台藩主伊達政宗公が、徳川幕府への報告の際に初めて用いた言葉である。徳川家康の行動を記録した『駿府政事録』に記されている。それまで津波は「大海嘯(だいかいしょう)」と呼ばれていた。
慶長三陸大津波は、東日本大震災と同等かそれ以上の津波が沿岸を襲ったと推定されており、伊達政宗公は復興事業に力を注ぐと共に防災にも力を入れた。政宗公は津波が襲った仙台平野沿岸に防災林としての植林を命じた。その命のもと、和田一族である和田為頼・房長親子が二代に渡って植林を手掛け、その後も繰り返し沿岸を襲った津波の被害軽減に繋げてきた。
しかし、東日本大震災ではこれらの防潮林は津波で押し倒された所も多く、いかに速やかに避難するかの課題が一層明らかになった。
南海トラフの巨大地震では最短2分で津波が到達するとされる。世界各国でも津波に繰り返し襲われている地域がある。我々は東日本大震災の経験を、国内外の人々の命を守ることにつなげていかなくてはならない。
大川小学校と釜石東中学校の教訓
東日本大震災の際、宮城県石巻市の大川小学校では、津波到達まで50分あったが、教職員による避難の判断が遅れ、児童74人教職員10人が亡くなった。
大人がいて子供の命が失われたのは極めて深刻であり、児童の中に学校の裏山に避難することを提起した子がいたが、教員がそれを否定し結局逃げ遅れてしまった。裏山は普段から校外学習に使われており、早く逃げていれば全員が助かった可能性がとても高い。
一方、岩手県釜石市の釜石東中学校では、地震の後、校庭に出た生徒210人に、副校長が「点呼はいいから走れ!」の指示で、即座に高台に向けて走って避難した。近くにあった鵜住居小学校では、一時校舎3階に避難を始めたが、地元消防団の呼びかけで高台避難に切り替え、釜石東中の生徒が鵜住居小の児童の手を取り走って避難した。
さらにいったん避難した高台にも津波が到達する危険があると分かると、さらに海抜の高い峠まで逃げた。こうして学校にいた児童生徒は全員が助かった。
こうした津波避難で得た知見を我々は日本国内のみならず世界に発信をし、世界の人々の命を守ることが重要であり、日本が世界で果たなければならない役割であると考える。
2004年のスマトラ地震津波以後、インドネシアにおいて、「稲むらの火」を題材にした絵本を配布したり小中高校で授業が行われてきた。我々はさらに東日本大震災という悲惨な被害の経験を、世界各国の防災に活かすことに変え、貢献していく。
我が国は数々の災害の際に世界から支援を受け、復興を成し遂げてきた。防災分野や災害対応で恩返しをするとともに、これらの分野への日本の貢献は世界の平和と安定につながるはずだ。