谷口智彦のこの一冊|兼原信克『安全保障戦略』

谷口智彦のこの一冊|兼原信克『安全保障戦略』

安倍晋三前総理のスピーチライターを務めた慶応義塾大学大学院教授の谷口智彦氏が選ぶ珠玉の一冊!


同志社大学の学部生に講じた講義録。400ページに16講を収める。1講読むのに1時間くらいかかる。  

逆にいうと16時間つくれば読めるのだから、この際、著者に代わって頼んでしまおう。菅義偉総理大臣、ご多用とは思いますが、ぜひとも通読し、再読三読してください。

それというのも本書において著者が第一読者として想定するのは、実は学生ではない、総理や統合幕僚長、官邸幹部たちだからだ。  

尖閣諸島をめぐり、また台湾有事において、中国を相手に自衛隊を動かす――隊員男女を命の危険にさらすこととなる決断を迫られる治者こそが、本書の求める読者である。  

学説をのどかに陳列し、諸国の制度や由来を悠々と説く類書なら、内外に少なくない。本書は違う。明日にでも起き得る危機に、日本は弱い。日頃の準備たるや、あまりに乏しい。総理の迅速果断な対応を支える態勢自体、未整備だ。  

安倍晋三総理の下、安保の制度的充実を図って、著者は八面六臂の活躍をした。総理と日本を過(あやま)たせまいと、おのれにも緊張を強いた。だからいまだに何が足りず、それがどれほど致命的かを著者は知り尽くしている。本書で、それを詳述した。  

全編から滲み出る切迫した危機意識は、そこに由来する。治者のかたわらにあって、責任意識を分有した者のみがもつ危機感だ。本書に、類書などあるわけがない。空前だ。制度創設者自身による直後の記録と解説であるから、絶後ともなろう。

「日頃は堅気の真面目なお父さんで、近所付き合いもマメで愛想笑いの絶えない人だが、夜になると黙々と素振りをして剣道の練習をしている。家に呼ばれると剣道師範の証書が壁に飾ってある。こういう人が尊敬され、愛され、不良が商店街で暴れているようなときには頼りにされ、不良も怖がって大人しくなる。国家関係も同じなのである」

「力を無視した外交はない」と説く文脈にふと現れる右のような比喩が、絶妙だ。苦しい訓練を重ね、日夜領土領海領空を守る制服の男女に聞かせてやりたい。自らの使命を、微笑とともに納得するだろう。  

著者は、人も知る座談の名手、比喩の達人だ。苦くて重い内容に富む本書を読んでケラケラ笑うわけにはいかないが、微苦笑を強いる箇所は、この本でも随所に現れる。  

政策や、歴史上の課題をいかに説いたものか。二六時中あれこれ考え、かつ好んで考え続けた著者ならではで、この力が、例えば高村正彦自民党副総裁(当時)の信頼を勝ち得た。平和安全法制を根回しするうえで著者の果たした貢献は、大きい。  

自ら創設に奔走し実現させた国家安全保障局の枢機は、国運を担う重責を著者に与えた。畏怖を感じさせた。同じ怖れを、歴史上の誰彼は感じただろうかと、著者は問いたい。

「〔元寇時の日蓮上人、幕末の吉田松陰〕のなかで弾けた人類愛は、ほとんどの日本人が亡国の業火に包まれた火宅のなかで無邪気に遊ぶ子どものように振る舞っているとき、激烈な孤高の危機感に焦燥した」  

と書く著者は、日蓮や松陰に、抑え難い敬意と共感を覚えている。  

萩の出で、松陰を敬慕するところ、著者は安倍総理と同じだ。そんな著者が、一朝事あらば総理とともに日本のため孤独な闘いに立つのだと、ある時確かに覚悟したことを書評子は知っている。安倍総理が、そのことをよく知っていたことも。(初出:月刊『Hanada』2021年8月号)

安全保障戦略

¥ 3630

谷口智彦

https://hanada-plus.jp/articles/769

1957年、香川県生まれ。東京大学法学部卒業後、雑誌『日経ビジネス』記者を約20年。その後、外務省外務副報道官などを務め、第二次安倍政権発足後、首相官邸に入り内閣審議官。2014年4月より内閣官房参与。安倍総理退陣と同時に辞任。慶應義塾大学大学院教授。著書に『通貨燃ゆ』(日経ビジネス)『日本人のための現代史講義』(草思社)『誰も書かなかった安倍晋三』(飛鳥新社)など。

関連する投稿


ビジョンだけで国防や軍縮は達成できない|太田文雄

ビジョンだけで国防や軍縮は達成できない|太田文雄

願望の表明や、宣言、メッセージの発出は、戦略ではない。中国を核軍縮のテーブルに着かせるには、まず日米の側が同等の戦域核を持ち、戦力を均衡させることから始める必要がある。


【読書亡羊】必読、対中国「政治戦」の教科書を見逃すな!  ケリー・K・ガーシャネック著、鬼塚隆志監修、壁村正照訳『中国の政治戦 -「戦わずして勝とう」とする国への対抗戦略』(五月書房新社)

【読書亡羊】必読、対中国「政治戦」の教科書を見逃すな! ケリー・K・ガーシャネック著、鬼塚隆志監修、壁村正照訳『中国の政治戦 -「戦わずして勝とう」とする国への対抗戦略』(五月書房新社)

その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする週末書評!


「人道支援てこに拉致被害者救出」方針を米は理解|西岡力

「人道支援てこに拉致被害者救出」方針を米は理解|西岡力

家族会と救う会は2月に新運動方針を決めた。日本政府認定の拉致被害者だけでなく全拉致被害者の一括帰国という「時間的制約のある人道問題」と、北朝鮮の食糧難という人道問題を共に解決しようと金正恩政権に呼び掛けたものだ。


中国に媚びを売る?危険すぎる沖縄県人権条例|篠原章

中国に媚びを売る?危険すぎる沖縄県人権条例|篠原章

沖縄県の照屋義実副知事が着任したばかりの呉江浩駐日大使を表敬訪問したその日、ある条例が可決していた。「沖縄県差別のない人権尊重社会づくり条例」(「沖縄県人権条例」)――玉城デニー知事の思惑が透けて見える危険な条例の実態。


NHK受信料や電気代を「自腹」で支払う自衛隊員の悲哀|小笠原理恵

NHK受信料や電気代を「自腹」で支払う自衛隊員の悲哀|小笠原理恵

自衛官候補生採用案内には「入隊後は宿舎での生活となります。居住費はかかりません」と書かれているが、果たして本当なのか。電気ポットや冷蔵庫の電気代だけではなく、テレビがないのにNHKの受信料も徴収されていた――。


最新の投稿


【読書亡羊】『土偶を読む』騒動を知っていますか 縄文ZINE編『土偶を読むを読む』(文学通信)

【読書亡羊】『土偶を読む』騒動を知っていますか 縄文ZINE編『土偶を読むを読む』(文学通信)

その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする週末書評!


【埼玉県川口市 クルドの現場を行く②】地元住民の苦悩|西牟田靖

【埼玉県川口市 クルドの現場を行く②】地元住民の苦悩|西牟田靖

入管法改正案についての報道が相次いでいる。そのトーンは反対一色。難民を認定しない日本政府や入管は悪、翻弄される外国人は善――という非常に単純化された報道ばかり。その一方、不良外国人の迷惑・犯罪行為に困る地元住民の声はほぼ封殺されたままだ。


原子力規制委の抜本的改革が必須|奈良林直

原子力規制委の抜本的改革が必須|奈良林直

柏崎刈羽原発で東電の社長を厳しく追及し、社員のやる気をなくさせているのが現在の原子力規制委の山中伸介委員長。電力事業者の取り組みがうまくいかないのは、規制委の采配が下手だからだ。我が国でも米国のように、規制委の抜本的改革が必要である。


広島サミット成功と浮かれていいのか|田久保忠衛

広島サミット成功と浮かれていいのか|田久保忠衛

お祭り騒ぎや日本式のおもてなしではどうにも片付かない冷厳な現実が待ち受けている。己を知らない国に救いはない。


動くか拉致問題、北が協議提案に即反応|西岡力

動くか拉致問題、北が協議提案に即反応|西岡力

水面下での秘密協議がすでに始まっているか、近く始まる可能性が高い。ただし、そこで、合同調査委員会設置案など「全拉致被害者の即時一括帰国」ではないごまかしの提案が出てくる危険性がある。推移を注意深く見守るべき時だ。