二〇〇九年からの民主党政権が、なぜ国民の期待に応えることができなかったか。その答えは(中略)外に向かって大声で叫ぶものではないと考えている。ただ、経験不足が様々な現象の根っこにあったことは間違いなく……
経験不足が災いしたことは渦中にいた人物でなくてもわかることで、〈(立憲民主党は)経験値を生かした「安定感」を示すことが重要であり…〉と言われても、何によってどう安定感を示せるのか、読み取るのは難しい。
読者や有権者のことが見えていない
もう一つ、「読者や有権者のことが見えていないのか」と思わざるを得ないのは、まえがきはともかくとして第一章の内容だ。
このコロナ禍に出版するのだ。通常は、コロナで仕事を失った人や経営が圧迫されている飲食店、映画館などの関係者の立場に寄り添い、「政権は何をやっているのか!」と厳しく指摘するか、もしくは「ダメな政権だが自分たちは様々な提案をしてギリギリの線を保っている。もっとあれもこれも必要だ」と述べてくれることを期待する。
枝野氏の本を手に取るのは多くが野党支持者、政権不支持者なのだから、「枝野さんは分かってくれている」「自民党ではもうダメだ、立憲頑張れ」と思ってもらうようなメッセージを発しなければならない。
ところが。コロナ禍については第3章に引っ込んでおり、頭から〈「新自由主義」的傾向に偏った社会経済システムが(中略)いかに脆弱であったかが明らかになった〉となんだか評論家のような文言から始まる。
間で確かに飲食店など厳しい状況下にある人に寄り添う姿勢は見せており、章末では自己責任社会への批判として〈「官から民へ」「民間でできることは民間へ」というスローガンとプロパガンダが与野党を問わず叫ばれ続けてきた。私自身、そうした流れに乗っていた部分があったことを反省する〉としているが、なんとしても現状を変えたいという熱や意思というものが伝わってこない。
あえてそうした感情的な記述を排しているようなのだが、おかげでどこか他人ごとのようにしか読めない文章になっている。つまるところここが問題で、納得する記述もないではないのだが、全体を通じて「あなたは何目線で政治を論評しているんですか?」というトーンが続いているのだ。
一方、肝心の第1章で何を扱っているかと言えば、〈「リベラル」な日本を「保守」する〉と題し、「安倍的な保守派の国家観は明治を起点としているが、我こそはそれ以前の日本の歴史をも重んじる本当の保守である」というお題目が飛び出してくる。
記述自体はこれまた同感ではあるのだが、それだけに読んですぐに思ったのはこういうことだ。
「政権を獲る準備ができた、と宣言したうえで、自らのビジョンを綴る本で、最初に言いたいことが、それなの???」
なぜ、と不思議に思っていたが、安倍晋三前総理の『新しい国―美しい国 完全版』(文春新書)を手に取って「なぁーんだ」と気づいた。
『美しい国』の第一章の冒頭で安倍氏が「リベラルと保守」について語っているのだ。その向こうを張ったということなのではないかと思うが、これまた読者(国民)置き去りの感が否めない。